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目が覚めた瞬間に時計盤が目に入ったのはたまたまで、その短い針が、自分が想像していたよりも数字二つ分も早く進んでいたことにアルフォンスはとりあえず焦った。隣に寝ていたはずのリザはもう既に起き出していて、バスルームの方から明かりとドライヤーの音が漏れてきている。
手遅れなのは今更どうしようもなかったが、急かされるようにベッドの上に上半身を起こした。あー、といって汗で体温の下がった皮膚の表面にへばりついた髪をぐしゃぐしゃとかき回して呻く。いつも兄に「遅くなる時は連絡してよ、ご飯の用意があるんだから」とか口酸っぱく言っているのがこの様で(だからといって、これからもう少し優しく注意しようとか反省をするわけでもなく)、重ねてあー、失敗と溜息を吐く。
鞄の中の携帯を確認すると、着信もメールもなかったから、きっと兄もまだ帰っていないんだろう、ちょうど良い。
ぱちん、とアルフォンスが折りたたみ携帯をとじたのと、ドライヤーの音が止まってリザがバスルームの扉を開けたのが同時だった。静かな部屋で音が絶妙に噛み合って、リザの少し濡れた鳶色の瞳と視線がぶつかる。どちらかともなく、笑った。

「時間、大丈夫?」
淡い撫子色のジャケットを羽織りながらリザが言う。化粧も終えて、バレッタで豊かな金髪を留めた彼女には隙がない。1人ベッドの上で裸で、置いて行かれた気がして、アルフォンスは溜息を吐いた。寂しいとかそんな感情より、彼女の言葉にせっつかれるに飽き飽きした。
あら、もうこんな時間、と伏し目がちに時計を見る彼女の睫毛には黒い繊維が絡まって、さっきまでより長くはなっていたけれどアルフォンスは気に食わなかった。金色の方が綺麗なのに。そう言ったら、男の人はみんなそう言うわね、と笑われて吐き気がした。その他大勢の男の失言集に、見事自分も名を連ねたわけだ。
「僕はまだ大丈夫みたい。リザさんは?」
「そうね、そろそろかしら」
彼女には夫が居る。黒い髪の幼い顔をした、それで居て腹の中は適度に腐っていそうな嘘くさい笑みを浮かべる優しい顔の三十路の男で、アルフォンスは兄を交えて4人であったことがある。自分より一回り年の違うあの男は、リザをとても大切にしていて、リザの友人である自分と兄をとても大事にしている。それでもアルフォンスはリザと2人で居る事に罪悪感を感じたりはしないのだけれど。

こんな関係になったのは一年くらい前で、きっかけは彼女の夫が企画した食事会が、幹事の都合で急遽おじゃんになったことだ。外は大雨で、硝子を容赦なく雨水が流れていく。
「取引先に呼び出されちゃった、って」
案の定兄はその時遅刻で、まだレストランに着いていなかった。1人で通されたテーブルに座って、外の雨を見ていた。夫からの電話を受けて中座していたリザは、戻ってきて申し訳なさそうにアルフォンスに微笑みかけた。構いませんよ、とか何とか答えたと思う。上辺だけは。
「エドワードくんは?」
「まだ来れないみたいです」
メールを確認したアルフォンスに、リザは微笑んで提案した。
「じゃあ、2人で先に始めちゃいましょうか。」
それがどういう巡り合わせだったのか、それまで4人で食事しても、熱心に喋るのは兄と彼女の夫ばかりだったのに、その時たまたまレストランに取り残された(と言った方がしっくり来る。元々会いたがっていたのはその場所にいなかった2人だったのだから)アルフォンスとリザは初めてまともに会話をして、意気投合した。こんなに話が合うのに、どうして今まで気付かなかったのだろう、と2人は笑った。
電話を掛けるのはいつもリザからだった。旦那さんがでたらどうするんですか、とアルフォンスが言ったからだ。
「大丈夫よ、あの人は」
そう言って彼女が「あの人」と夫を呼ぶのがアルフォンスには耳障りだった。自分に気を使っているのか、わざと余所余所しくしてみせるリザの生真面目な物言いが、逆に彼女の夫への愛情を示しているようで耐えられなかった。
「あの人はそう言うところはきっちりしてるの。ちゃんと線を引いているから」
身体の関係を持って半年、……それでも、アルフォンスは自分から電話を掛けたことがない。


部屋は真っ暗だった。10時。まだ兄は帰ってきていない。
コンビニで買ったサラダをテーブルの上に放り投げて、それから少し考え直して冷蔵庫に入れた。アルフォンスと兄は2人暮らしだ。母親は幼いことに死んで、父親は蒸発した。その代わり毎月、「生活費」と称した振込がある。
兄は意地を張って、頑なにそのお金に手を付けようとしないが、アルフォンスは正直どうでも良いと思っている。子供を養うのは親の義務なんだから、ある金は使えばいいと思う。
オーディオの電源を入れる。何も確認しないでプレイボタンを押したら、大音量のパンクがスピーカーを震わせて閉口した。
オーディオの上に置かれていたケースを裏返す。グリーンディ。音割れして、誰の声かすら判らなかった。しかも最悪なことにコードの絡まったヘッドホンがその横に放置されていた。こんな音量をヘッドホンで聴くなんて、あの馬鹿兄は何をしているのか。また小言が一つ増えた、とアルフォンスは嘆息した。一日に何回溜息を吐いているのか。

玄関の鍵が、かちゃん、と遠慮がちに開く。それから随分間が開いて、エドワードがやっと顔を出した。
「おかえり、兄さん。遅かったね」
「……お、おぅ。」
エドワードは怯える、と言うのを身体全体で表現していた。
「僕いったよね、遅くなる日はちゃんと言ってって。」
「ごめん、……ちょっと、図書館で本読んでたら時間過ぎちゃってて」
「ふーん?」
顔を覗き込むと、小さい兄は更に小さくなった。ごめん、ともごもご呟くのが判る。言い訳がへたくそな癖に、どうにか取り繕うとする兄は可愛い。
「じゃあ、お仕置き」
「え」
「キス一回ね。唇限定」
「うー…わかった」
渋々、エドワードはつま先立ちする。勿論アルフォンスは屈んだりなんかしない。アルフォンスの服を掴んで、一生懸命背伸びするエドワードはその辺の女の子よりよっぽど魅力的だ。
ちゅ、と啄むようなキス。すぐに離れたエドワードは、耳まで真っ赤にしてきゅっと唇を噛んで俯く。
「次はちゃんと連絡してね?」
額にキスをして、囁く。身体の芯が甘く疼いた。かなり歪んでいるし、倒錯的だとも思う。
今誰が好きかと聞かれたら、アルフォンスは聞かれた相手によって二通りの答えを使い分けることが出来るのだ。しかも両方とも、かなり真剣に。