前編


招かれざる客が来たのは、その日の真夜中だった。
雨音とともに近づいてくる足音。それからとんとんと扉をたたく音。やばいのが来た。寝たふりをしようかと思ったが、扉をたたく音は小さく響いてやまない。やがてそれは、段々大きな音に変わり、いつのまにかどんどんと乱暴に。

そんなうるさくするな、アルフォンスが――。

苛ついて、エドワードはドアに向かった。こんな時間、やってくるのはまともな客じゃない。患者しろ、そうでないにしろ。扉に覗き窓を作っておけばよかったと、後悔するのはいつもこんな時。一度や二度の後悔ではないが、喉元過ぎれば何とやら、次の日には忘れてしまって結局覗き窓は開けられず。エドワードは扉を薄く開いた。
そこから見えるのはさあ鬼かモンスターか。

「………え?」
空けた途端、エドワードに倒れこんできたのは鬼でもモンスターでも、もちろん幽霊でもなく。普通の人間だった。しかも、スラムでよく見るような男とは、毛色の違う。黒い髪は、濡れて肌に張り付いていたけれどとても綺麗で、生ゴミ臭さなんて勿
論しない。怪しげな黒いスーツでも、厳つい鎧でもなくて、見るからに仕立ての良いスーツに革靴、但しボロボロにはなっていたけれど。濡れ鼠、せっかくのスーツも、靴も。
「頼む、かくまってくれ」
低い声。掠れて弱弱しい。ああ、この手の。エドワードは納得して傷を探る。ドアを開けたときの恐怖感は既になかった。思った通り、全身の打撲、軽く骨折もしているかも知れない。幾度となく見てきた迷い込んでしまったプレートの上の、住人。スラムの人間にとって最高の鴨だろう。こんな良い服を着てこんな時間、ふらふらしていたらこういう目に遭う事くらい判るだろうに。
それとも、スラムの内なんて想像も付かなかったんだろうか。プレート一枚隔てた夢の国の住人は?
「……訳ありで」
エドワードより二回りは大きい体躯を支えることに必死でいると、男はぽつりと呟く。
「助けてくれ」
言ってそのまま、意識を失った。


「おはようお兄さん。ご気分はいかがですかね。」
丸一日診療台を占拠し続けて、翌日エドワードが包帯を代えようと診療室に入ってく ると、男は目だけをきょろきょろと動かして、部屋の中を見回していた。診察台の横の棚に替えの包帯と濡れタオルを置いて、男を見ると、彼は不思議そうにエドワードを見つめていた。それから、ここに入ってきたときよりは幾分か力の籠もった声で、訴える。
「………身体が痛い」
「怪我してるからな」
けけけ、と笑って、その程度で済んだんだから良かったじゃねぇか、財布はなかったけどな、と言うと彼はそうか、と沈痛そうな顔で。つかつかと近くによって、包帯かえるから、というと、男は更に困ったように眉を寄せた。
「……なんだよ」
「女性に、悪いじゃないか」
「………本気で言ってるなら頭の中も治療してやるけど、どう?」
「い、いや、冗談だ…」
「あーあー、下半身は元気みたいですねー縛っときましょーかねー?きゅっと。」
「ちょ、ちょ、やめたまえ!それは生理現象だ!!」
真剣に焦って、怪我をした上半身を動かそうとして、盛大に顔をゆがめた。アンタ馬鹿?と吐き捨ててから、服を脱がせて身体を起こし、包帯を解くと無数の切り傷、筋肉質だけれど日焼けはしてない白い肌に切り傷が付いて、痛々しい。包帯が擦れるたびに彼が顔をしかめる。
「……どこか折れていた?」
折れてなかったけど、ひびは入ってたよ、それにしてもアンタ運良いね、財布奪われただけですんだんじゃんと、エドワードは慰めたつもりが、彼は更に顔つきを険しくして。
「命が助かっただけでもめっけもんだって。」
解かれた包帯、その下に、脇腹の大きな新しい火傷痕、その部分だけ引きつった皮膚は、白い肌のそこだけまるで意志を持っているようで。
「火傷?」
「少し前に、事故で……」
そっか、と言って傷の消毒。これだけ大きい火傷、今日のなんかよりよっぽど痛かっただろと言うと、その時のことは覚えていないと彼は笑った。

包帯を巻きながら、それとなく話を聞く。プレートの上の実業家、事業に失敗して破産、借金取りに追われてスラムへ。借金取りは撒けても、スラムのチンピラは逃げられなかったらしい。ぼろぼろになって居たところを、見かねた人がここを教えてくれたらしい。どうせ財布と言っても使えないカードばかり入っていたからね、と自嘲気味に笑う。ありきたりだなぁとエドワードが素直に感想を述べると、まったくだ、と肩を竦めた。それからエドワードが聞いても居ないのに自己紹介、へー、ロイっていうのあんた、というと嬉しそうに微笑んだ。自己顕示欲の強い奴、と言う感想は胸にしまう。君は?と目を輝かせて言うロイの黒い瞳は、とても綺麗で。エドワードと名乗ると、ならエディと呼んでも?と。

「エディはその……その右手、は?」
ロイが首で指したのは、エドワードの鋼鉄の義手。外出時と問診時には手袋を着けて隠しているが、今はその鈍色が白い包帯にとても際だっていて目立つ。
「あー…うん、そんなもん、度重なる不幸の結果で」
ごにょごにょ、とごまかすとロイはそうか、と苦笑したきりその話には触れなかった。


ロイが転がり込んできてから一ヶ月たって、まだ二人で過ごしていて。歩けるようになったロイは、たまに外に出るようになった。借金取りももう大丈夫だろ治ったなら出て行け、と言うと、まだもう少し置いていてくれ、のやり取り。最初は嫌そうだったエドワードも、さすがになれてきて、軽口で出て行けだのまだ置いていてくれだの、痴話げんかかよ、とエドワードは思いつつ。
所詮はプレートの上の人間とエドワードは甘く見ていたが、この男なかなか適応能力があるらしくいつの間にやら近所のおばちゃんやらおっちゃんやらと仲良くなって、エドワードがここに住んで何年にもなるのに貰ったことのない多数の「お裾分け」、 昨日の食卓にはなぜか肉じゃがとチンジャオロースが作っても居ないのにテーブルに並んでいたり。買い物に行かせたらおそろしいまでに値切ってくるわ、とても少し前まで金持ちだったとは思えない行動の数々。
お陰ですっかり食料調達係として大きな顔をされている。
「……エディ、この診療所は患者はいないのかい?」
急にロイが新聞から顔を上げた。どこから拾ってきたのか知らないが、真新しい新聞。スラムでそう手に入るものではないはずだけど。文無しのくせに。
「病院に患者は居ないに越したことないだろ」
野菜炒め(これは珍しくエドワードが買いに行った)をする片手間、適当に答えると、ロイは確かにとあっさり納得した。

ベッドは(当たり前だけれど)一つしかなくて、診療台はさすがに寝にくいから、とついにロイは大きなソファを拾ってきた。そんなもんどこにあったんだと思わずエドワードは頭を抱えたが、あって困るモノでもなし、どうせ本と机以外何もなかった部屋、ソファの置き場くらいあったからまぁいいかと諦めた。
この男の突飛な行動にもそろそろ慣れてきていたし。
ロイは無事ソファを設置し終わると、満足そうに身体を沈めひとしきり堪能した後、折角だし君も座らないかい?と隣の空いた席をとんとんと叩く。
「……汚くない?」
「全然、大丈夫だよ。ほらほら」
これじゃあどちらが潔癖なんだか判らない、とエドワードは嘆息して腰を下ろした。
ふかふかとしたベッド、確かに気持ちいい。
「良い買い物だっただろう?」
「なっ…アンタ、これ買ったのか?!」
「食費を節約した分と、あと、だいぶやすくして貰ったしね」
ああ、やっぱり金持ち体質なんだと思ったが、一回りは違うだろうこの男の、屈託のないその表情を見ていたらとても怒れない。
「エディ、怒ってる?」
「んーん、ちょっと呆れたけど…アンタが破産した理由が分かる気がする…」
「…ひどいね」
唇を尖らせて、エドワードの頬を撫でる。くすぐったいと笑うと、ロイの目が少し細められて。
「なに?」
何となく不穏なモノを感じて、エドワードは首をかしげた。ロイは少し考えた後、囁きに近い声で。
「…キスして良い?」
「………え。」
ロイの手がエドワードの顎に触れて、少し間があって。ロイが気を遣っているのが判ったから、エドワードは不思議と、抵抗する気にならなかった。了承の返事のかわりに目を瞑ると、ロイの唇が優しくおりてきた。


結局こからなし崩し。触れ合うだけだったキスが、いつの間にかロイの舌が入ってきて、歯列を割って咥内を舐め取られあっという間に服を剥かれて。好きだよ、とエドワードの耳元で聞こえるロイの声。嘘だろ、と思いつつすごく感じてしまったのは。
機械鎧の付け根を舐め、血の味がすると舌なめずりするロイ、色っぽくて。インドア派のくせに厚い胸板に、エドワードは飛びそうな意識の中必死でしがみついて。でも結局失神して、気が付いたら、朝、で。

「………なぁ」
ソファが狭いとのエドワードの苦情により、途中からベッドに転戦してそのままピロートーク。
腰が痛い、と毒付きながらもにこにこと笑うエドワードが、何かに気付いて眉を寄せた。
「なに?もっとしたい?」
「馬鹿か。あんた、こやってベッドで寝るなら、あのソファいらなかったじゃねぇか」
エドワードの言葉にロイはきょとんと目を丸くして、そういえばそうだと笑いだし、釣られてエドワードも腹を抱えていたから、丸く収まったと言うべきか。