cherry2
神田は、キスが嫌いだという。
それはアレンも付き合いだして、暫くしてから知った事実で。
ある朝アレンが、いつものようにキスをねだってみたら、露骨に嫌そうな顔をして――それこそ半泣きになって理由を問いつめるアレンに、渋々出した神田の答えがこれだった。
曰く、べたべたするのが嫌だとか。思いも寄らない神田の言葉に、アレンの表情は半泣きから大泣きに変わり、キスごときで泣くなという神田の暴言(本人はフォローのつもりだったと後に証言している)に、一週間冷戦状態になったことは記憶に新しい。
キスされないから愛されていないとかは今更思わないけれど、それでも何かわだかまりが残るのに変わりはない。
それなら付き合い始めた頃、アレンが嫌がるほど(人前でも気にせず)キスをしてきた神田は何だったのかと、釣った魚に餌をやらないとはこのことか。それとも付き合い始めた頃の、あの(嫌いなキスでもしたくなるほどの)熱は冷めたと言うことか。
もっとも、そのキスにはアレンに好意を寄せる周囲――男女関係なくアレンはもてる。本人は解っていないが――への牽制の意味がかなり含まれていたのだが、勿論アレンは気付いていない。
鈍いとは罪なもので、そんな神田の独占欲を露も知らないのはアレンだけ。キスをしなくなったも、神田の牽制が功を奏して、アレンに手を出そうとする厄介者がいなくなってその必要がなくなっただけで。
そんな事情にまったく気付いていないアレンは、純粋にキスをしなくなったこと=愛情の目減りではないかと余計な勘ぐりをしてしまう。かと思えば、神田の言う通りキスの回数ごときで簡単に相手を疑ってしまう自分に嫌悪感を抱いたり。とにかく最近、あまり情緒が安定してるとは言えない。
アレンがセックスよりもキスとか抱擁とかそういう'ふれあい'に重点をおいているのに対して、神田はそれ以上を求めていると言うだけの違いで、別にキス一つしなかったくらいで愛情が揺らぐ訳でもないというのが神田の言い分なのだが、その言い分を口に出して伝えないから問題はややこしくなってくる。
つまり神田が嫌いなのはキスという行為そのものだけで、別にアレンとキスをするのが嫌とか、愛情が薄いからキスをしないとか、そんな次元の問題ではないのに。
――逆に言えば、アレンがもっと我が儘で自分勝手で、相手の気持ちを考えない人間で、恋人に自分への気持ちを確かめるという暴挙をもっと早い時点で実行していれば、こんなに悩む必要ななかったと思われるのだが。
神田はアレンには甘い。言葉できついことを言っていても、実際の行動の端々からもアレンを大事に思っているのは誰が見ても理解出来るから、アレンとしても今更拗ねる気はないのだが、恋人が遊びに来たにも関わらず、一人椅子に座って新聞をめくる手を止めない神田の態度に、いつものこととはいえ、少々気分を害していることは否定出来ない。
アレンはベッドに転がって、足をばたつかせて抗議の音を立てたが、無視をしているのかただ気付いていないのか、神田は意に介さない。尚も神田の興味を引くために、ベッドの上に広げられている彼の団服にくるまってみたり、ばさばさとわざと音を立ててみたりして暫く様子をうかがっていたが、とうとう我慢がならなくなってベッドから立ち上がる。
「……神田」
普段団服とサラシできっちり覆われている背中が、今は部屋着の薄いシャツの下から透けて見える。身長はほとんど変わらないはずなのに、大きく感じるその肩に腕を回してうしろから抱きついた。答えがなくても、伝わってくる体温に嬉しくなって、アレンは彼の長い髪の毛に顔を埋めた。呼吸と共に流れ込んでくる神田の匂い。
「なんだ」
やっと(眉間に皺を寄せてではあるが)神田が注意をアレンに向けた。愛想も何もない声だったけれど、神田が怒っていないのは解る。と言うことは、別に嫌ではないと言うことで。
「折角来たんだから構ってください」
拗ねてるんです、と髪の毛と肩を抱きしめたまま呟く。神田の少し苦笑混じりのため息が聞こえたが、気にせずぎゅっと抱きしめる腕に力を入れた。
「はいはい、構ってやるよ」
言いつつも目は相変わらず文字を追っていたが、それに気付いたアレンが不機嫌そうにむぅと呻くと、観念して新聞を床に放り投げた。抱きつかれて身動きがとれない状況に、舌打ちをして肩に絡む腕を解くと、身体をアレンに向ける。
「……というか、新聞読んでる間は邪魔しないって昨日おまえ、言ってなかったか?」
「忘れました」
「あー、そーかよ」
子供のように口を尖らせるアレンの髪をくしゃっと撫でる。面倒くさそうな口調とは裏腹に、口元は緩んで、瞳は優しく細められていた。
「で、構って欲しいんだって?」
「はい」
「具体的になにすんの?」
神田の優しい笑みが一転して凶悪なものに変わる。普段は滅多に表情を変えない黒い瞳の奥、不穏な光が宿って。任務の時に見せる荒々しさとは別の熱を持った闇色。その目に直視されて、アレンは身を固くする。蛇に睨まれた蛙と言うか、狼に見つかったウサギというか。まさしく捕食者と被食者の構図。
なぁ言ってみろよ?と耳元で甘く低い声で囁かれて、体の芯が熱くなるのを感じる。自分以外の前では決して見せない神田の熱っぽい艶やかな声。普段冷徹さを保つ彼が、こんな声を出すのだと知れば、どれくらいの人間が驚いてくれて、そして、アレンを神田の特別な人間だと再認識してくれるのか。
甘い妄想……神田に言えば、馬鹿かと一蹴されるだろうけれど。神田にとっての特別な存在。特別という言葉の響きにアレンはうっとりと酔いしれる。熱に浮かされたように、されるがままに身をゆだねていたアレンを現実に引き戻したのは、消えそうで消えない胸の中でずっと燻っている疑念。
特別な。本当に?
ほんの少しの悪戯心とほんの少しの恋人としての意地で、服の下に侵入しようとする手を握って睨んで牽制して。今までになかった思わぬ反応に神田が少し狼狽するが、構わず、ぐいっと詰め寄って言う。
「キスしましょう」
「は?」
「きーすー」
「あー、はいはい」
ちゅっと、アレンの頬に口づける。そのまま唇を沿わせて柔らかい耳たぶを甘く噛む。くすぐったくて……気持ちいい。いつもならどんなに抵抗していてもここで折れてしまうのだけれど。アレンは断固として神田から身体を離す。二度目の、しかもさっきよりあからさまな抵抗に、気持ちよくアレンに触れていた神田も、さすがに眉をひそめる。
「……なんで逃げんだよ」
「僕はキスしてくださいって言ったんです!」
「してるだろ」
アレンをもう一度優しく引き寄せて、首筋にキスを落としながらも、シャツのボタンを外す手を止めない神田に、流されそうになるのを感じてアレンは焦って声を上げる。
「ほっぺたじゃなくて!」
「………もっと別なとこが」
「ちーがーうー!!」
目を丸くする神田の言葉を遮って力一杯否定する。力で勝てないのなら、この一直線に目標に向かって突き進む神田のペースを崩すほかに、アレンに対抗する術はない。
自由になる右腕(左腕は警戒されて、最初の抵抗の後から押さえ込まれていた)で、髪に隠れていた神田の耳を引っ張る。白い肌に似合わず、神田の耳が妙に赤かったのに、必死なアレンは気付かない。
「ちゃんとキスしてください」
聞き分けのない子供に言い聞かせる母親のように、一言ずつゆっくりはっきりと。目はしっかりと相手を見つめて、神田の黒い瞳に自分の顔が映っているのを意識して。
アレンのあまりに真剣な顔に調子を崩したのか、興を削がれたのか。捕まれた耳を解放された神田は、さっきとは一転してあっさりとアレンから手を離す。ため息をついて前髪を掻き分け、床に目を落とす。その瞳からは、さっきまでの熱は抜け落ちて、ガラス玉のように冷たい光を放っていて、アレンは思わずのトーンを落とす。
「……やっぱり嫌なんですか?」
「前に嫌いだっつったろ」
「でも……その前はしてくれたから」
「今は気分じゃない」
「そんな」
「だいたい、今してたじゃねーかよ。止めたのはお前だろ」
そうだけど、でも、と反論したかったとアレンは思う。たとえそこで神田がアレンの言葉を待っていてくれたとしても、まともに反論出来たかどうかは疑問だったが、何かせめて、気持ちだけでも、理由だけでも言えたかも知れない。それが限りなく言い訳に近かったとしても。けれど神田は、その機会すら与えてくれずに、ベッドの上でアレンに玩ばれてすっかり丸まっていた団服をつかむと、アレンを残して一人部屋を出て行った。
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