「こんな奥で、何してるの?」
その日ロイがいたのは、エドワードの家の書庫、の地下。
収納できなくなった蔵書を、苦し紛れに積み上げたらしいその地下室は、エドワードでも滅多にはいることはなかった。黴臭さと紙の腐った臭いが湿っ気とブレンドされていて、鼻に来る。
ロイは本の山に埋もれて、辛うじて確保されたスペースに机を置いて、すっかりページが変色して劣化した本を真剣に追っていた。覗き見ると、言語もどこか古くて、見たことのない単語が多用されている。
「……なんて書いてあるの?」
「さぁ」
「さぁ?」
「暗号だから。今解読中なんだ」
顔を上げて微笑む。君の父上のだよ、と言われてもエドワードは感慨が湧かない。
エドワードは質問を少し変えた。
「何が書いてあるの?」
「元の世界に戻る方法」
言われて、びくっとした。なんだかすっかり忘れていた。すっかり彼がこっちの生活にとけ込んでいたから。
「元の世界って、何それ」
「君のお父上が残していた資料に、それらしいことが書いていた」
彼は、エドワードの困惑した声と表情にも気付かない。一心に暗号を解いているのだろう、自分に構う余裕すらないくらい。あの父親は自分達の前からいなくなったばかりか、そんな余計な物まで残していたのかと思うと、怒りすら湧いてくる。
「エドワードは何か聞いていない?お父上から、研究のこととか、なにか」
「知らない。あいつ、俺が小さいときに出てったし」
精一杯、刺々しさを込めたのに、ロイは気付く様子さえない。普段なら、ちょっとむくれてるだけでも、すぐに声音で気が付くくせに。
「そうか…でも、これさえ解けば、戻れるかも知れない」
「……戻るの?」
「いろいろ、やり残したことがあるんだ。残してきた人もいるし」
「向こうの、俺、とか?」
恐る恐る、言った後に顔色を読もうとしたが、薄暗いのと俯いているので表情が読めない。
「…………ああ」
答えるのに逡巡したのが、空気というか雰囲気でわかった。
「やっぱり、おかしいと思ったんだ、やたら優しいし、ちゅーとかするし。好きだったんだ」
「………うん」
「……俺じゃなくて?」
「……………ごめん」
「……………………」
胸が締め付けられるみたいに痛かった。喉の奥がきゅっと締まって、息が止まりそうになった。目頭が熱くなってきたのを感じて、早くここから逃げないと、と思って、でも足は地面に縫い固められたかのように動かない。
「俺は、」
言って良いのか判らないけど、言ってしまおうと思った。少しでも、後悔すればいい。自分を、向こうの自分の代わりにした愚かさを悔いればいい。
悔いてくれ。
「アンタが好きだからな」
**********
喧嘩でもした?と聞かれた。そりゃそうだ、ロイと会えば顔を背け、呼ばれれば走って逃げていればさすがにおかしいことに気付くだろう。敢えて聞いては来ないものの、トリシャも心配そうにエドワードの顔を伺っている。彼女が、今日から食事はまたロックベル氏の方に行きますから、ありがとうござます、とロイに言われたのは今日の昼頃だ。食費は貰っているし、気にしなくて良いのに、といっても頑なに聞かなかったロイに、様子のおかしなエドワード。
「折角兄さん最近笑うようになってたのにさ、どうしたの」
「…………別に」
確かに最近楽しかった。家にいても息苦しさも感じなかった。幸せだった。だった。過去形だ。
「喧嘩したなら、早めに仲直りしなよ?ロイさんだって、いつかはセントラルに帰っちゃうんだから」
当分かえらねぇよ、とエドワードは心の中で悪態をついた。帰れねぇんだから。
その事実に、少し安心しながら。
一週間、二週間、と時間は過ぎて、ロイを見かけることはあったが、話はしなかった。相変わらず、エドワードが仕事に行っている時間にうちにやってきて、地下に籠もっていつの間にか帰っている、らしい。らしいというのは、とにかくエドワードがロイを避けているからだ。食事も、言葉少なにかき込んで逃げるように自分の部屋に籠もっている。部屋にストックしておいた本を読みあさって時間を潰したが、やがてそれも底を突いた。新しい本を取りに行きたくても、書庫に行けばロイに会う気がして怖い。
「………謝る、チャンスかなぁ」
案外、ばったりあえばごめん、といえるかも知れない。あの時は、あんな事言ってごめん、と。
それでもうじうじと小一時間くらい悩んで、やっと決心が付いた。ベッドから起きあがって、考えた台詞を口の中で反芻する。
あの時はあんな事言ってごめんあの時はあんな事言ってごめんあの時はあんな事言ってごめん…
ロイにあったときに、出会い頭に言葉が出てくるよう、とにかく繰り返し繰り返し呟きながら、エドワードは書庫への階段を下りた。
書庫のドアの前に立ち、一度深呼吸。ドアノブに手をかけて、目をぎゅっと瞑って意を決す。思い切りドアを開けた。
「あの時はあんな事言ってごめん!」
間髪入れず叫んだ後、返答がないのに気付いて目を開けた。
「あ、れ」
書庫は真っ暗で、誰もいなかった。あれ、とおもって時計を見ると、とっくに夜半過ぎ。
「………しまった、悩んでたから」
さすがにこんな時間にいないよなぁと思って嘆息する。
いざ謝ろうと思ってきたのに肩透かしを喰らって、気持ちが萎えていくのが判る。
明日もう一度一から気合いを溜め直して明後日謝ろう、と緩い決心をした。
小屋に来たのは久しぶりだった。だってロイに出会ってから、家にいるのが楽しかったから。ここに逃げてくる必要がなかった。少しご無沙汰だった獣道を通って、小屋にたどり着く。
「あれ?」
違和感。まただ。エドワードは小屋に近寄って、何がこんなに変なんだろうと観察して思い当たった。
「あ、……扉が」
直ってる、と心の中で。あの時、ロイに初めて会った日に壊された蝶番が新しくなっていた。よく見れば、ぼろぼろだった小屋の屋根とか、壁の木張りとかも、綺麗に。
恐る恐る扉を開ける。案の定、ロイが座っていた。初めてあったときと同じ、青い軍服。エドワード愛用の椅子だ。小屋の床も掃除されて、綺麗になっている。エドワードが書いた椅子の錬成陣は、拭かれてさらに薄くなっていた。
それが余計にエドワードの不安が増幅される。胸から全身にかけて、血が一気に巡る。どくどくと大きく脈うつ。
「エドワード」
「……アンタ、何してるの、こんな所で」
ロイが困って、笑うしかないと言う感じで微笑んだ。エドワードの不安が確信に変わる。
「君は、なんというか、勘が良いね。」
「……帰る気だったの」
「見つかったんだ、帰り方が」
「いつ」
「昨日」
どうして、どうして自分はあの時、迷わずに部屋を飛び出して謝りに行かなかったのだろう。あのぐちぐちと悩む時間をすっ飛ばして彼の所に行っていれば、間に合ったかも知れない。引き止められたかも知れないのに。
「帰れるの?」
「理論上は」
ロイの足元に、大きな錬成陣が描かれていた。自分には理解することも出来ない、大きくて複雑な。向こうの自分あら、これを理解して発動を止められただろうか。その横に、避けるように書かれた自分の錬成陣。稚拙さに泣きたくなった。
「………嫌だ」
「エドワード」
「嫌だ!帰るな!」
縋り付いて、泣いていた。帰らないで、と大嫌いだった軍服に顔を埋める。噎せるような血の臭いがした。その肩を、ロイが優しく揺する。
「ごめんね、エドワード。でも」
「うるさい!帰るな!」
泣きわめいて、ロイの言葉を遮る。ロイは辛抱強く言葉を続けた。
「私がいなくて寂しいなら、セントラルに行きなさい」
エドワードは泣くのをやめて、ロイの顔を見た。微笑んだ優しい視線と目が合う。ひく、とエドワードの喉から嗚咽が漏れた。
「きっとこちらの世界の私がいるから。こちらの私はまだ君に会っていなくて、きっと不幸だから。」
「そんなん、俺のこと見付けてもくれないロイなんか知らない」
「そんなことを言わずに、こちらの私は無能だから許してあげて。君だって、待ってるだけのお姫様じゃないだろう?」
からかうようにロイの瞳が細められる。エドワードは嗚咽を飲み込んで、涙を拭った。ロイが心配そうに肩に触れるのが、すごく心地良い。
しばし沈黙が流れる。眼帯に覆われていない目が優しくエドワードを見ていた。優しいくせに、絶対受け入れてくれない。
ロイは決して答えを急かそうとはしなかったが、これ以上ごねてもきっと困らせるだけで不毛だと、とエドワードにも判っていた。でも、判っていても、応えるまでに時間が掛かった。
だってて応えたらきっと彼は言ってしまう。未練もなく。彼が好きなのは、向こうの世界の弟と旅をしているらしい国家錬金術師の自分なのだ。
「わかった……そうする」
そう言えたのは、大分してからだった。それまでロイはずっとエドワードの頭を撫でていた。
「うん、そっか。ありがとう」
礼なんか言われてもむなしくなるだけなのに、と、文句を言う代わりに一層強く抱きついた。ロイの身体が揺れて、苦笑しているのがのが判る。
「あ……」
ロイが不意に呟いて、エドワードが顔を上げる。
「なに?」
「ちょっと……無責任なことを言ったかもと思って…勢いで」
「何それ。今更なんで?」
「こちらの私が、私と同じ嗜好を持っているとは限らないし」
「嗜好て……」
呆れて言うと、ロイがごめんごめんと笑った。
「でもさ、あっちの俺はあんたが好きなんだろ?」
「うん……たぶん」
「声が小さくなったぞ」
「ちょっと自信が……」
『…………………』
エドワードが溜息を吐く。
「いいや、じゃあ」
「え?」
「向こうの俺も、俺もアンタが好きなんだったら、こっちのロイも俺のこと好きだろ。おまえがあっちの俺好きなんだし。」
「君にしては珍しく、えらく根拠のない」
「アンタ、帰りたくないのか」
睨むと、あはは、冗談だよ、と笑って額にキスをした。
「……こっちじゃないんだ」
「唇は、こちらの私のために残しておくよ」
「もうこの前奪ったじゃん」
「ああ」
とロイはぽんと手を叩いた。なんだこいつは、無意識で誰これ構わずキスしてんのかと、エドワードに疑心が芽生える。
「くれぐれも、ファーストキスはすませたとか、こちらの私に言うもんじゃないよ。基本的に私は嫉妬深いから」
「………なんだよ、それ」
けっと悪態を吐くと、ロイは急に真面目な顔になって、低い声で囁いた。
「どうか、しあわせに」
**********
あっけないもんだった。ロイは錬成陣を発動させて、光に包まれて、消えた。
エドワードはロイのいなくなった後の小屋の中、彼の体温が残る椅子だとか、匂いの残る本だとかに触れてそこで一日を過ごして、次の日とその翌日と仕事をサボって今度は家の書庫に籠もった。そこはまだ、ロイの感触が残っている気がした。
ロイはセントラルに帰った、とエドワードが言って、アルフォンスもトリシャもロックベル氏も、それ以上何も言わなかった。
相変わらずリゼンブールは平和で、気がかりと言えば最近雨がすこし少ない事、それだけ。
「……エドワード」
二日ぶりに出勤したら、バイトはクビだと言われた。新しいバイトを雇ったという。しゃーないな、二日も無断欠勤だ、と、それでも情けなくて溜息を吐く。挨拶をして去り間際、牛乳屋の主人がエドワードを呼び止めた。
怖い女将さんに尻に敷かれて、いつも静かに座っている存在感の薄い優しい親父だ。エドワードは頭を掻きながら、会釈する。
「迷惑かけてすみませんほんとに。お世話になりました」
「実は、トリシャがね」
突然出てきた母親の名前に、エドワードは首をかしげた。母がどうしたというのだろう。
「母さんが、何か」
「昨日うちに来てね」
「……え?」
「あの子は何となくロイさんを追いかけてセントラルに行きたいみたいだから、って」
「……………はぁ」
なんと返せばいいのか、エドワードは優しい母親の顔を思い浮かべた。
「思い切ってバイトクビにしちゃって下さいって言っていったぞ」
「はぁ!?」
……一人少年が、母親の気の利きすぎた気配りで、バイトをクビになったこと以外、変わった事なんて何もなかった。