リゼンブール村から少し離れた山の中に昔、木こりのおじいさんが住んでいたという廃屋があった。
昔と言われてもエドワードの母親が子供の頃には既に無人で、それより前に家の隣の年齢不詳の美人医師(?)ロックベル氏がここに越してきた頃にはまだ人気があったとか言う漠然とした、とにかく結構前から使われてないことだけは自明の建物、ただでさえ辺鄙な場所にあって危ないのにその上老朽化していつ倒壊してもおかしくない古い家屋、学校でも家でも親はとにかく口酸っぱく子供に「あの小屋には近づいちゃ駄目よ」と折に触れて言い聞かせていたのだが、最近そういえばそれを聞かなくなった。
15も16にもなった子供に、そんなことを言い聞かす必要がないと思ったのか、しかしエドワードはそんな母親の信頼とは裏腹に、その廃屋にずっと通っていた。確かに今にも壊れそうで埃っぽい場所ではあったけれど、長年の雨風で剥がれた屋根板と梁の間から陽の光がそそぐその場所は、晴れている限り一人になれる恰好の読書の場所。
……小さな田舎で、自分を知る人のないところに行くのは結構至難の業で、エドワードもそろそろ多感で複雑なお年頃、父親がいない母と弟3人の生活でご近所でも評判の孝行息子ではあったけれど、その安寧とした田舎の変哲のない生活にそろそろ平和よりも退屈と閉塞感を感じ始めていて、けれどもそれから脱却できない。小さな村故に、どこに行こうと常に回りには誰かいて、守られて、窒息しそうな。

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いつものように森に入って、小屋のドア(と言えないような朽ちた木の板)に触れたとき、エドワードは妙な気配を感じた。野良猫とかではない、奇妙な。こんな所まで来るような人間はもう滅多にいないはず。
自分が小さいときには、それでも冒険と称してここまで遊びに来ていた物だが、さすがに最近は朽損が激しくなって、子供心にも危ないと感じるようになったのか、エドワード以外ここを訪れる人はいなくなったと思ったのに。
持っていた本を右腕に抱え直し、軋むドアを薄く開いて中を覗く。上から入る陽に照らされて、埃が空中を舞っているのがよく分かる。一つだけまだ新しい、自分で錬成した木の椅子――床にはまだうっすらとその時書いた錬成陣が埃にまみれて残っている。
がたん!と音がして、エドワードは思わずドアから手を放して離れた。
その判断は賢明だった――もしそのままその場にいたら、次の瞬間勢いよく放たれて蝶番が外れ転がったドアに、したたかに顔を打ち付けられていただろうから。
「エドワード…」
小屋から出てきたその人物が呆然と口にしたのは、紛れもなく自分の名前だった。
は?と反射的に間抜けな悪態を吐いて、隠れ家の侵入者へじろじろと無遠慮に目を向ける。
黒髪に、女ならちょっとはときめくかもしれない憂いを帯びた甘いマスク。
残念ながらその顔は、半分ほど黒い布に覆われているが、ここまではまぁ、許容範囲だ。いくらここが田舎の辺境とはいえ、片目だけの人間も、恵まれた容姿の人間くらい存在する。自分が現にそうだ。片腕片足機械鎧。けれどその、彼が身を包む青い軍服は。
「俺、軍人に知り合いはいないけど」
声が固くなるのも当然だった。完全な許容範囲外だ。
つい最近まで軍事国家だったこの国は、クーデターが起きて情況が一変したとはいえ未だ軍部は強い影響力を誇っている。国民運動家のクーデターに一役を担ったのが、軍の上層部の一端だとか言うのがもっぱらの噂だが、生憎トップが変わろうがなんだろうが、そもそも中央の統治が甘かったリゼンブールに大きな影響はない。それよりもかつて強硬に推し進められた国家拡大政策――そしてそれに伴って起こった戦争でこの辺り一帯は大きな打撃を受けた。その怒りの方が、ずっと大きくて。
「エドワード…?」
もう一度、彼が困惑の色が混じった声で自分の名前を呼ぶ。
「だから」
自分の声に、嫌悪感が強く滲んだ。無意識に、だ。
「俺は軍人に知り合いはいない」
手に持った本を投げつけて、出て行けと罵ってやりたいくらいだ。それをしなかったのは、目の前の軍人が、目に見えて可哀想になるほど自分を見て狼狽しているのが判ったから。危害を加える気がないのは自明だったが、それでも、あまり関わりたくない。
「エドワード、だろう?無事に帰って、いや、でもそれならアルフォンスくんは?」
「……なんで弟の名前まで知ってんだ。召集令状でも持ってきたのか。兵役なら俺も弟も免除されてんだぞ」
「へい、えき?何を言って」
ふら、と一歩彼が前に出たのに呼応して、エドワードは一歩下がって距離を取った。
ぽた。
(…ぽた?)
軍人が動くのと同時に地面に何か落ちる音、目の前の軍服に対して警戒は怠らずに視線を地面に滑らせて、エドワードがもう一度後ずさった。踏み固められて乾いた地面に、黒く大小の染みが出来ている。
「アンタ、怪我してるのか!?」
さっきまでの嫌悪も吹き飛んで、エドワードは彼に慌てて詰め寄る。顔を覆う眼帯と、軍服に気を取られていたが、彼の顔色は確かに蒼白だった。
「えど」
「俺の名前とかもう良いから、とりあえず」
怪我人は安静に、とか気を遣う質ではないから、ぐいぐいと手負いの彼の腕を掴んで小屋に引っ張り込み、ベッドに沈める。自分が昼寝できるようにシーツをかえておいたのが良かった。そう埃も舞わず、砂臭さもしない。
「どこ怪我してんの?」
「エドワード、大丈夫だから」
制止も聞かず、軍服のどす黒く染まった脇腹部分をまくり上げると、案の定、中のシャツは鮮明に赤く濡れていた。血の筋は足を伝ってブーツの中にまで伸びていた。
「応急処置は終わってるんだ、ただ傷口が開いて」
「アンタ名前は?」
「ろ、ロイ、ってエドワード、何を今更」
「よし、ロイ。医者に行こう、俺の幼馴染みんちが医者だから。」
「幼馴染み?ロックベル氏か?」
担ぎ上げようとした手が止まる。ロイ、と名乗った軍人の顔を凝視する。こいつ、俺や弟の名前だけでなくて、ウィンリィも知ってる、と思うと怪我に気を取られて忘れていた懐疑の念が頭を擡げてきた。
「……そうだけど、アンタ何者」
「大丈夫、大丈夫だから下ろしてくれ。じゃあ、ここはリゼンブールか?」
「そうだけど、アンタ傷より頭大丈夫?」
「君こそ」
「はぁ?」
話が全然噛み合わない。二人して間抜け面で見つめ合って稍そのまま、少し整理しよう、とロイが切り出した。
「きみは、エドワード・エルリックだろう?少し小さい」
「誰がチビか!小さいとか言うな!しかもちょっと遠慮がちに言うな、余計むかつく!!」
「……本人だな。鋼の錬金術師の、エドワードエルリックだろう」
「……は?」
「鋼の錬金術師」
「はぁ?」
「…………国家錬金術師の」
ロイは顔をエドワードの伺いながら言って、エドワードが意味が分からず眉を寄せると、途端に顔を曇らせた。
「どういう」
「国家錬金術師なんて言う制度、前のクーデターで廃止されたじゃねぇか。確かにちょっと、目指してたけど」
エドワードは手元の本を見る。錬金術関連のものばかりだ。
失踪した父は高名な錬金術の研究家だった。らしい。おかげでその手の本は家の書庫に大量にある。たまに、セントラルから同業者が書物の閲覧に来るくらいだ。彼らはみんな声を揃えて言う――これほどの蔵書は、セントラルの中央図書館にもないと。
それはまぁ、話半分だとしても、貴重な書物が多いことは間違いないらしい。
彼らから、国家錬金術師の制度を聞いて、エドワードはずっと憧れていた。潤沢な研究資金、最先端の技術設備――それらを自在に使える夢のような資格。
それがクーデターの後、どういう訳か廃止されたときは、エドワードはとにかく余計なことをしてくれたと憤った。
おまけに、徴兵制まで引かれた。住みにくいことこの上ない。身体の弱い弟と、父親のいない家の長男である自分は兵役を免除されたけれど。
「その、機械鎧は」
「ああ。むかし、列車事故に巻き込まれて」
言われて、エドワードは右腕をさすった。右腕左足は、鋼で出来ている。さすがに村で知らない人は居ないけれど、初めて見る人はみんな不思議がり、触れてはいけない物のように視線を逸らす。そして、尋ねにくそうにその経緯を問う。そして興味が満たされると稍も気まずそうに話題を逸らす。いつものことだ。
ロイはその反応とは違って、それを聞いて少し考え込んだ。ぶつぶつと何か呟く。呟いた後、思い出したように口を開いた。
「……君は、国家錬金術師制度は廃止されたと言ったが」
ロイが、ポケットをまさぐりながら言う。目当ての物を見付けたのか、取りだした手の中には鈍く光銀時計があった。
「私が現に、国家錬金術師だ」


**********

話を付き合わせ、とにかく少し何かがおかしいと二人して漸く気づきはじめた。
ロイが言うには、エドワードは自分と知り合いで、既に母はなく、国家錬金術師として弟と2人で旅をしているらしい。
旅?なんで?と尋ねると、ロイは言葉を濁した。
「私は確かにあの時、セントラルにいたんだ。……君と別れて、クーデターを起こしてその代わりに、片目を失って。それはそれは全く後悔していないんだ。ただ、君たち兄弟のことがずっと気がかりで」
眼帯に覆われた左目に手をやりながら、ロイは言う。その言葉の端々に、彼のエルリック兄弟への愛情が感じられて、エドワードは奇妙な気分になった。だってそれは、自分達であって自分達でない。
「その後は、部下に助けられて……療養していたんだ。それが、二日前に司令部に呼ばれて……久しぶりに外出したときに、恐らく大総統派の残党か暴漢に襲われて、気が付いたらこの小屋に」
「ここ、リゼンブールだぜ?」
「おかしいと思ったんだ、攫われたにしては人の気配もないし。もっとも動けなかったから逃げられはしなかったけど。そうしたら君が来て…」
彼は端正な顔を歪めて頭を抱えた。
「一体どうなってるんだ…」
エドワードはどうして良いか判らずに、その大人が苦悩するのを見ているしかなかった。

**********

とにかく傷の治療をしようと村に連れて行くにしても、軍服はまずいだろうと思ったが、生憎服がない。
「どうしよう。親父の服は、ちょっとでかいよなあ」
「君の服はちょっと、………だしね」
「傷口抉るぞ」
「いや、冗談だ。」
ひく、と口元をひきつらせたロイに、意地悪く笑い返してやる。
「俺も冗談だよ」
「………それはよかった。」
「アンタ、手持ちある?有り金出してほらほら早く」
「君はどこに来ても相変わらず恐喝まがいのことを」
「何いってんの、服買ってきてやるんじゃん。俺今手持ちないんだよ」
ああ、とロイは懐から財布を取り出す。
「……結構持ってる」
中身を確認して、下世話な事を呟くとロイは早く頼むよ、と笑った。
「アンタ、よく、さ」
蓋を閉めるように、小屋に辛うじて立てかけられたドアから出て行くときに、エドワードは振りかえる。
「ん?」
「見ず知らずのガキにこんなの預けられるな。帰ってこないかもよ、俺」
財布を振って、わざと意地悪に言う。
「だって、私にとって君は見ず知らずの人間じゃないし。エドワードはそんな事をする子じゃないよ」

――――あっさりと微笑まれて、完敗した。


軍服を脱いで、スーツ姿になったロイは普通に格好良かった。スマートでオシャレで、ある意味田舎のリゼンブールでは浮いていた。気っ風のいいロックベル家の女主人は、突然エドワードがどこからか連れてきたよそ者の患者を何も言わず診療して、行く所がないならここにいればいいよ、と言った。何か聞かれたらどうしようと懸念していたエドワードはそれが杞憂に終わり、ロイはロイで、その心の広さに頭が下がるばかりだ。
「兄さん最近、ロイさんにばっかり会いに行ってるよね」
夕食時に、何気ないアルフォンスの言葉に、エドワードはすんでの所で吹き出しそうになったシチューを嚥下した。
当のアルフォンスも勿論他意はなく、最初は警戒していたものの、ロイがとても懇意に、錬金術のこととかセントラルのこととか諸々楽しい話を聞かせてくれる事から心を開いている。なにより、なんとなく、初めて会った気がしないというのは兄弟揃っての見解だった。
スキンシップも多い。クールそうに見えるくせに、よくべたべた顔に触れ、髪を触り、頭を撫でられる。
錬金術のことで討論になると、その後に決まってさすがだね、と言って至極満足そうに微笑む。

「これだけの知識があったら、国家資格くらい取れただろうに」
激論を交わした後、ロイは散らかした資料をまとめながら不思議そうに言う。
「……だってセントラルに行くのだって、お金掛かるじゃないか。うちにそんな余裕ないんだ。アルも母さんも身体弱いし、無理させらんないし。俺だって、この腕と足のメンテナンスとか、金掛かるし。」
「そう……偉いね」
言って頭を撫でるロイの手は優しかった。子供扱いされたと、普段なら憤懣やるかたなく思うのに、彼の手だけは何故か素直に受け入れられる。
「こちらの私は、酷く無能なようだね。私はちゃんと、自分で君を見付けたのに」
「そうなの?」
「そうだよ、私がイーストシティからリゼンブールまで直々に出向いて君を誘ったんだ」
「……………」
心の中に暖かいものが広がって、溶ける。自然と笑みが浮かんだ。頬に触れるロイの手に、自分の手を重ねる。
ロイが一瞬驚いて、すぐ目を細めた。
「だから、こちらの私は酷く不幸だね。君にまだ出会って無いんだから」
何歯が浮くようなこと、と悪態を吐こうとして優しくキスされた。



(きっと、ロイとあっちの俺が知り合いだったから)

ロイの話を半信半疑にしか聞いていなかったエドワードも、さすがにここまで話が噛み合わないと、ロイは本当に違う世界から来たんではないかと思うようになっていた。嘘にしてはロイのは話には整合性がありすぎて、妄想癖とか虚言症とかですませられるレベルではない。
ロイの話してくれる錬金術のレベルは非常に高くて興味深いし、それになにより――



ロイがアルフォンスと話をしている。
病気がちで長時間の研究が難しいためにエドワードほどではないが、アルフォンスも錬金術に関しては造詣が深い。エドワードがせめて生活費の足しになれば、としている牛乳配達と家庭教師を終えて帰ってきたときには、2人は外の石垣に並んで何やら真剣に議論していた。
そういえば、ロイって俺ら兄弟と話してるのって大抵錬金術の事だよな、と早朝から叩き起こされて疲れた身体を休めるために、その時は素通りして部屋に戻ったのだが。
「昼間そういや、何真剣に話してたの」
何故か夕食まで同席、下手をすれば枕を並べる仲になったロイに、エドワードは言った。
母親のトリシャは、その光景に、まるで新しいお父さんが出来たみたいね、と嬉しそうにいい、それは冗談にならないから、と男3人から否定された。
どうせ錬金術のことだろ、と高をくくっていたエドワードは、アルフォンスとロイが顔を見合わせてくすっと笑ったからん?と首をかしげた。アルフォンスが悪戯っぽく笑って言う。
「ひーみーつー」
「何だよアル!教えろよ!」
「男同士の秘密だな」
「っんだとロイ!俺だって男だ!」
「あら、母さんも知りたいわ」
「母さんには後で教えてあげるよ」
「なんだよそれ!男同士じゃないじゃん!」
ぎゃーぎゃーと賑やかに怒鳴った後、アルフォンスが笑いを堪えていった。
「いや、兄さんがね、可愛いから」
「は?」
「どんなところが可愛いかってロイさんと言ってたら、話が合うことあうこと」
「あら、そうなの?」
「お腹を出して寝るところとか、うたた寝するときに絶対右手をしたにして寝るから機械鎧の跡が付いてて、寝ちゃってたのがばれるとか」
「すぐばれるのに、寝てないと維持を張る辺りとか」
「……………………」
「どうしたんだい、エドワード。黙りになって」
含み笑いをしたロイに言われて、エドワードはいらいらとパンを口に詰め込んだ。
「それにしても、ロイさん、エドワードのことよく見てるわね」
トリシャが、嬉しそうに笑った。