すれ違い
キルヒアイスには、少し散歩に出てくると言った。疑似暖炉の前で、癒し効果のある(という謳い文句の)立体投影された焔に照らされて、本を読んでいたキルヒアイスは、顔を上げて「解りました」と、付いてくるのが当たり前のように答えてコートに手を伸ばしたけれど、ラインハルトは手を振ってそれを制した。怪訝そうな顔をしたキルヒアイスが、本当に大丈夫ですかとか言うのを全部聞き流して、ラインハルトは部屋を飛び出した。
偽善も優しい振りももうこりごり、おまえはおれを見ていないくせに!
自分で呼びつけて待ち合わせ場所を指定しておいてなんだが、ラインハルトはその場所に到着するまで、待ち合わせ相手が本当に来ているとはまさか思っていなかった。無視されると思っていた。
だから、行き交う人の中、タバコを吸いながらラインハルトを待っている、雑踏から頭一つ分飛び出た端正な顔つきの軍将校を見て、ラインハルトは目を見開いた。
恐る恐る(何をそんなに怖がっていたのか解らない。もしかして、名前を呼べば消えてしまうとでも思ったのか)、小声で彼の名前を呼ぶ。
小さな声だったはずなのに、それは人のざわめきに揉まれて消えることなく彼の耳に届いたらしい。
ヘテロクロミアの瞳がラインハルトに焦点を合わせて、笑う。
「……まさかほんとに来るとは思わなかった」
「あなたが呼び出したんでしょう」
ロイエンタールが苦笑する。吸っていた煙草を、手元にあった吸い殻入れにねじ込んだ。
女性達の憧れの的、今をときめく金銀妖瞳の少将は遠征帰りの疲れを微塵も感じさせない優雅な動作で、ラインハルトの髪に触れた。光を放つ金色の奔流の、一房を指に絡めて、しかしすぐに何か思いついてそれを解く。ラインハルトの一方後ろに、居るべき筈の人物が居ないのを不審に思ったのだ。
「珍しいですね。貴方があの赤毛の幼なじみを連れていないなんて」
「……別行動くらいする」
片時も離れた事がなかったのは事実、よっぽど何か理由があるとき以外、キルヒアイスと離れた事がないのはラインハルトも自覚しているが、その認識が他人にまであると言う事に何となく不快感。
普段なら喜ぶところなのに。「そうだ、おれとキルヒアイスとは一心同体なんだ」と、それくらいの冗談も胸を張って言えるはずなのに。
「そうですか、それは失礼しました」
付き合いの浅いロイエンタールは勿論、そんな事に気付かない。気付いたとしても何か言うような性格だとは思えなかったが。
ロイエンタールは新しくもう一本煙草を取り出す。風上から流れてくる紫煙にむせそうになりながら、ラインハルトはそれを必死に我慢した。そんな所をこの男に見せるのは癪だった。
「それで、今日はどういうご用件で?」
平素ラインハルトは、彼の色の違う瞳を見ても特に何の感慨も抱いていなかった。女共は左右瞳の色が違うくらいで何をあんなに騒ぐのかと、ロイエンタールのもてはやされぶりに疑問を感じていたのだが、その時口元を皮肉気に歪ませて言ったロイエンタールの表情で、なんとなく合点がいったような。もっともそれは、ラインハルト自身、腹に一物抱えた状態で、色眼鏡が掛かっていたせいかも知れないが。
ラインハルトは、ここにたどり着くまで何度も何回もシミュレーションした台詞を吐き出した。
「わたしとセックスする気はないか?」
ラインハルトの言葉に、一瞬だけ金銀妖瞳が見開かれる。
「……正気ですか?」
その動揺も一瞬で過ぎ去って、あとには青い瞳に乾いた笑いが浮かぶ。黒い瞳は何の表情も映さない。
「至って正気だ」
「嘘でしょう」
その時初めて、黒い瞳に表情が宿った。それはとても形容しがたかったが、とにかく、好意の類ではないのはラインハルトにもすぐ知れた。
「正気だ」
「それなら頼む相手が違うでしょう。閣下にそんな趣味がおありなら、私よりもっと適任が居るのでは?」
言外に侮蔑を滲ませたその台詞も、普段ならラインハルトの逆鱗に触れていただろうが、今日は彼の激情を刺激し得なかった。代わりにラインハルトの口から出たのは、ロイエンタールへの挑発だった。
「………卿は、私に惚れていると思ったが」
「これは、また」
大きく出ましたね、とロイエンタールは苦笑する。蒼氷瞳は何も言わず、ただ無言でロイエンタールを睨み付ける。
その瞬間に勝負は付いた、と言うより、ラインハルトの呼び出しに応じた時点で、ロイエンタールの敗北は決定事項だったのかも知れないけれど。
「……まさかほんとに抱くとは思わなかった」
「……………今更何を」
素裸にバスローブを一枚はおった状態で、タバコを吸いながらロイエンタールが今度こそ呆れて言う。ラインハルトはベッドの中で、金の髪を惜しげもなく広げて横たわって、ロイエンタールをぼーっと焦点の合わない瞳で見ていたが、数秒して飽きたのか寝返りを打って、顔に髪がへばりついては剥がれるのを繰り返す。
抱く前にロイエンタールは本当に良いのかともう一度尋ねたし、望むなら好きな名前で呼んでも良いですよと言うロイエンタールなりの親切も、ラインハルトは不機嫌そうな顔で退けた。それなのに事が終わった後で、そんな事を言われるとは、とロイエンタールは苦笑した。この若い天才は、どこまで本気でどこまで冗談のつもりだったのだろうか、と。
「抱いて欲しかったんでしょう」
「まぁそうなんだけど」
ラインハルトはラインハルトで、今一つ掴めないロイエンタールの表情を探ろうと、その特徴のある瞳を見たが、ホテルのオレンジのライトに照らされた瞳は、色の区別さえ難しかった。
「しかし意外だった」
「何がですか」
2本目の煙草を吸い終わって、ロイエンタールは更にもう一本煙草を取り出した。生憎このホテルのサービスに良いワインは入っていなくて、煙草に手を出すしかない。
「そんな趣味ないと思ってたのに。ちょっとカマかけただけなんだが」
だから今更そんな事を言うかとロイエンタールは思ったが、口から出たのは別の言葉だった。
「…貴方が望むなら、いつでもお相手しますよ」
その台詞はラインハルトにも予想外だったようで、くりくりと丸められたアイスブルーの瞳がロイエンタールを凝視した後、その綺麗な唇から出たのは、辛辣な応酬だった。
「卿は意外とプライドがないんだな」
だからこの期に及んでそれはないだろう、とロイエンタールはその夜3度目の感想を、煙草の紫煙と一緒に吐き出した。
ラインハルトにとってキルヒアイス以外の人間はどうでも良かったし、その癖他の男に抱かれる自分と、そんな自分に躊躇なく相手を申し出るロイエンタールに同じくらい呆れていたから、この2人の間に深まるのは交友でなく溝ばかり。