かけよってくる金髪の少年にロイはくぐもった声で言った。
君の言葉を思い出したんだよ。
口内を満たす血液が溢れる。むせかえる。揺れる眼球がもうすでに、対象物を捕らえられない。像が網膜に結べない。それでも彼は続けた。
わたしも、ためらってみたよ。ためらってみて、よかった。
だって、そうしたからわたしは、君を殺さずに、すんだんだから。

puzzling

戦争激化。死傷者多数。
国境付近で続く紛争は和平交渉からはすでに遠く離れた位置に鎮座してそこを動こうとはしない。
前線指揮官ロイ・マスタングは疲労ばかりが募って士気のいっこうに上がらない兵士たちを統率し、無謀な戦いをもう一年近く続けている。戦争なんて伊達と酔狂でなければやっていけんな、と彼はすでに何度も何度も広げられた周辺の地図を睨みすえた。伊達と酔狂。真面目に人殺しなんて出来るか、阿呆らしいと煙草の煙を吐き出す。部下からもぎとったそれは本来自分の好むものではなく先ほどから嫌なため息ばかり、隣の副官が心配そうにもう少しお控えくださいと言うのを片手で制してさきほど提出された書類をばらばら机に広げた。もう何度も呼んでいる。昨日の夜から何度も、繰り返し繰り返し。
ミミズの張ったような筆記体、間違えだらけの文法と彼らしい構想の計画立案。すさまじい、とロイは苦笑せざるを得なかった。こんな大胆で綿密で完成度の高い計画をわずか十代で立ててしまう彼の顔を思い出す。思い出したのは、昨日見た彼の寝顔だった。
「大佐、エルリック少佐が…」
顔をあげると、仮設された南部前線第三司令部のドアの前で敬礼する金髪の少年。青い軍服に、長い後ろ髪を三つ編みにしてまとめて、それと同じ色の瞳は反抗的につりあがっていて。
寝顔の方が幼いな、とロイは思った。腕枕に頬を潰して寝息をたてていた彼、その彼がブーツのかかとを鳴らしながらこちらへ歩みを進めた。
「読んでいただけましたか?」
「ああ、読んだ。」
君の目の前で昨日な、と付け足したいところを一歩手前で我慢する。エドワードがわずかに瞳を細めたのを見
て、ロイは吸いかけの煙草を灰皿に押しつけて消した。
「いかがでしょう?」
「完璧だな、参謀。さすがは軍上層部の秘密兵器…天才の発想は違う。」
「ならばさっそく実行に移したいのですが…修正すべき点などございましたらただちにいたしますが。」
「ないよ。」
ロイはもう一度、一番手前にあった書類を手にとって、それからまた机の上に放り投げた。
「いや、あえて言うならそうだな……次回はぜひこの流麗な字を凡人にも読み易く修正していただきたいものだな。」
「考えておきます。」
気分を害したのか眉間に皺をよせながら彼は机に散らばる作戦案の書類をとんとんとまとめた。
「作戦実行は明後日早朝0200時、作戦総指揮はマスタング大佐が……俺は前線に出ます。」
「わかった。作戦参加の総員に本日中に知らせておく。」
「感謝いたします。では。」
敬礼するエドワードに、同じく敬礼を返す。彼は姿勢はそのままで身体をずらし、ロイの隣にいた彼の副官、リザホークアイ中尉に向きなおった。金髪の少年に彼女も静かに敬礼を返す。
エドワードは作戦案を両手に持って部屋を出る間際に、ロイにだけわかるように素早く振り返ってあかんべをかました。

「ンだよ、今朝の。なぁーにが、『次回はぜひこの流麗な字を凡人にも読み易く修正していただきたいものだな。』だよッ、ばっかみてぇ!!」
夜、宿舎でエドワードは似てもいないロイの物まねをして彼を苦笑させた。
「君こそなんだね、可愛げも何もないあの返答。中尉の前であんなかしこまった態度を取る必要性はないじゃないか。もうバレているんだから。」
言いながらベッドの中でその年の割りに身体の小さいエドワードを抱き締める。その綺麗な金髪に顔を埋めると、そこからは火薬の匂いしかしなかった。
「バレてるとかバレてねぇとか、デキてるとかデキてねぇとかじゃなくてケジメ!あれはケジメなの!」
そんなこともわかんねぇのか、とぼやく唇を、ロイは口付けでむりやり黙らせた。終わりの見えない戦争の指揮官という立場と戦場という日常から孤立した閉塞空間にいるという現実性のなさにいくら過去の戦場の英雄でも疲労がたまらないはずがない。戦争に行く前は無駄によく回る口、言い訳の天才だったのに最近彼の口からは無駄口が減ったと、中尉が呟いていたのをエドワードを思い出した。
エドワードがこちらの前線へ派遣されてきたのは最近のことだ。首都にいた彼を招集したのは、現場指揮官のロイ・マスタングではない。国軍の上層部に嫌われて飛ばされてきた哀れな三十路軍人が国軍本部にいる、しかも士官学校を相次ぐ飛び級でもって最年少で卒業したエリートを召喚できるはずなどなかった。彼は国軍総司令部の人事決定によってこちらへ来た。それもマスタング大佐の麾下に直接加えろと条件付で。
南部に際限なく広がった戦線に配属された部隊は三つ。その中でもっとも条件の悪い密林と湿地を含む広大な戦線の指揮官がロイ・マスタングだった。彼が指揮しているおかげで今なお戦況はこちらに有利。だがそれは有利というだけでそれ以上の何ものでもなかった。これ以上戦闘が続けば無益どころか有害な消耗戦になることは見えていた。そこへ送られてきた有能な少年と立案された優秀な作戦。
「絶倫野郎。」
エドワードの言葉でロイは我に返った。その、細められた金色の瞳を見返して微笑む。彼がここへ来て三ヶ月。こうして身体を重ねるようになって一ヶ月。愛おしさは日を追って増す昨今。
「君が可愛いからだよ。」
「ペドフィリア。」
「それは違うよ。」
ロイは言いながら、彼の髪を撫でて、その耳たぶに噛み付いた。甘い声を出す小さい恋人に微笑む。
「君と会うまではわたしも女性としか経験がなかったよ。」
「嘘ばっか。妙に手馴れてたじゃねーかよ、初めてのとき。」
「耳年増なんだ。」
ロイが言うとエドワードははいはいと受け流す。
君、信じていないね、と反論しようとしたロイの唇を今度はエドワードが覆った。舌を絡める深いキス。ロイはエドワードに答えて、その舌をからめて唾液を交換した。長い、息の詰まるような。
服を脱がされながら、エドワードは窓の外を見つめていた。
「なあ、大佐。」
「なんだね。」
「月が満月だぜ。」
「そうか…」
ロイは興味のないふうに言葉だけ返した。エドワードの乳首を口に含んで舌で転がすと、可愛らしい吐息がすぐに聞こえてくる。
「んッ……んんっ…ぁ…」
「可愛いね…」
ロイはエドワードを見つめた。エドワードは悶えながら、快楽に喘ぎながら、その金色の瞳に恋人を映してはいなかった。

抱き合って絡まって結局何度も繋がって、最後はまたお互い抱き合って、ロイとエドワードは眠りに落ちようとしていた。それを遮ったのはエドワードだった。
「ロイってさ、」
いつもの階級呼びではない、ファーストネイムを呼ぶ彼の声。ロイは閉じかけた黒い瞳を開いた。乾いているのか何度も瞬かせてから、なんだね、と聞き返す。
「ロイってさ、イシュヴァールの英雄なんだろ?」
「…懐かしい名だな。」
ロイの睡魔の三割が飛ぶ。「それがどうかしたか?」
「人をいっぱい殺したんだろう?」
「ああ。そうだよ。ためらいなく、際限なく、殺したよ。」
「ためらいなく?」
何が言いたいのだろう、とロイはエドワードを見つめながら、その顔にかかる前髪を払ってやる。
「ああ、ためらいなくね。ためらっている暇なんてなかったから。」
「ためらってたら、こんなとこにはいねーだろうな。」
そうだね、とロイは言う。戦場では撃つ前に撃たねばならない。それが鉄則だ。そして常識だ。日常での常識から、たとえそれが常軌を逸していたとしても。
戦場では戦場でのルールがある。
「俺はためらうかもしれない…」
エドワードは自分の掌をひろげて見つめた。小さくて白い手だと、ロイは思った。小さくて白くて、汚れていない手。
「俺は人を殺したことがないから。」
エドワードがこちらへ来て三ヶ月。前線といえども常に戦場というわけではなく、とくに司令部は戦火にまきこまれぬように一応安全といわれるところまで距離をおいて設営してある。エドワードは本物の戦場へ行ったことがない。ロイが、エドワードが前線へ出て行くことを今まで拒んでいたのだ。軍上層部のお気に入りをこんなところで殺してしまってはいつ訪れるか検討もつかない終戦後の昇進に響くからだ、と呟く輩もいるらしいが。
真意を、エドワードは測りかねた。
「なぁ、ロイ。」
白い手を見つめる小さい旋毛を見つめていたロイに向かってエドワードは不意に顔をあげた。正面からぶつかる視線。エドワードが続ける。
「あんたが今まで殺してきた人たちは、ためらっちまったんじゃないかなぁ。」
「え?」
「あんたがためらうことなく引いた引き金、その数だけためらった人がいたんじゃねぇのかなぁ。」
ロイは肝が冷える思いをした。イシュバールで焼き殺した人間を忘れたことは一度もないが、これほど鮮明に思い出した瞬間はなかった。
黙り込んだロイをエドワードは覗き込んだ。ろーい?と呼びかけると、ロイは小さな声で呟いた。
「違うよ、エド。ためらったんじゃない。たんに動きがわたしより遅かっただけだよ。」
それだけだよ。

前線指揮官であるエドワードを含めた第一陣が密林へ入って30分、ロイは第三陣の調整をしていた。
第二陣は今しがた出立した。連絡兵が先頭部隊が敵軍のゲリラと遭遇したとの情報を得てそれ以降の情報は一切ない。
ロイは乾いた唇を舐めた。空を見上げる。しめった空気と、雲。風が出てきたようだ。
「スコールが来るかもな…」
「嫌な気候ですね。」
ホークアイ中尉が、自らの上官を倣って空を見上げた時、爆撃は耳のすぐ後ろで鳴り響いた。

あたりは火の海。そして、いつのまにか降り出していたスコールに全身を叩かれて、ロイは目を覚ました。
中尉、中尉と呼べば、側に倒れた女性が一人。仮設とはいえ、テントの柱だった鉄筋に脚を潰された彼女は立ち上がることもできずにいた。ロイは自分の耳を叩いた。右耳が完全に聞こえないが、左はどうにか機能している。彼はホークアイが唇を動かし何か訴えているのを見て彼女のほうへ近付いた。耳を倒れたままの彼女の口元へ運ぶと、彼女はあちらへ走っていく人影をみた、と密林の一点を指差した。ロイはそちらを見て頷くと、生きていた士官に救護班の要請を頼んだ。
「あ、あの……指揮官殿は…?」
「わたしは…前線部隊へ急ぐ。彼らがどうなっているか……心配だ。本部のハボック少尉にこれを………渡してくれ。」
ロイは紙に救護班の要請と援軍を出すよう細かい指示を殴り書いて、それを手持ちの包帯で巻いて防水した後に士官兵ににぎらせた。雨に濡れて震えているのは寒さのせいか恐怖のせいか、ロイは仕官の震える拳を強く握った。
「いいな、絶対に、ちゃんとハボックに渡せ、いいな?」
「はっ!」
敬礼して走っていく若い部下の後姿を見送って、彼はホークアイの指差したほうへ急いだ。

まっすぐ進んで犯人らしき人物には会えなかったが、予定よりもはるかに進路をはずした第一陣の兵士たちをロイは見つけることが出来た。そしてそのほとんどが、重症を追ってうずくまっているという有様だった。
第一陣はほとんど壊滅と言ってもいい。死者も多数でたようで、部隊の副隊長がかろうじて生きているのをロイは見つけて問い詰めた。
「大佐っ……この作戦はワナです!」
血を吐きながら声を荒げる副隊長にロイは慌てるな、と言ったが冷静でなどいられません、と彼は言った。
「待ち構えていた敵軍にまんまと包囲されて……」
「それで、エド………作戦前線指揮官は?」
「エルリック少佐……いや、エルリックは………敵軍とともに我々を攻撃したのちに……逃走いたしました…」
「……どちらへ向かった……?」
力なく指差された向こうへ、ロイは視線を向けた。その時。
そちらからまた、大きな爆音と激しい閃光が光った。

すべりそうなぬかるみを泥をはねながら走る。
スコールの中で、木々を燃やし人間を燃やす炎の匂いはロイに害を与え、眩しさは毒を与えた。まだ聞こえない右耳。右側面に不安を抱えながら意識を集中する。
聞こえてくるうめき声。第二陣の部隊、これでは壊滅でしかありえないじゃないか。あたりは燃え盛る炎と、木と肉の焼ける匂いが立ち込めていた。
うごめく人間のかたちをしたもの、人間だったもの、ロイの足に何かがからまってきた。下半身を吹き飛ばされた軍服を着た兵士。涙と鼻水と血でよごれた顔面。ロイは足蹴にした。優しく振りほどくほどの暇はない。ロイは見渡した。絶対に、いると確信していた。
火薬と、肉の焼ける匂いとで鼻はきかない。ロイは目をこらした。目と、皮膚を通じて空気の律動を読み取るしかもはや方法がない。
その淀んだ空気が動いた。音がしない。方向は右側面。ロイは、身体を右へ振り向けた。
構えたのは、彼の発火布ではない。降りしきる矢のような雨の下、濡れそぼったロイが黒い拳銃の銃口を向けた先に見えたもの。
見たくはなかったもの。
エド―――

あんたがためらうことなく引いた引き金、その数だけためらった人がいたんじゃねぇのかなぁ。

森に響いた銃声は、一つだけだった。