知っていますか、と切り出したアルフォンスの声は暗かった。え、とエドワードが思わず顔を上げる。アルフォンスの視線は、エドワードの手元に注がれたままで動かない。
「知っていますか」
彼の瞳はどこまでも青かった。この窓のない塔の中からは窺うことのできない青い空の色。くすんだ調度品からは感得し得ない青い結晶。
「なにを」
アルフォンスは、この部屋の中で異様な存在だった。そういえば、近寄ることすら嫌がっていた彼がこの部屋に頻繁に出入りするようになったのはいつからだろう。ランプの光に照らされたアルフォンスは、とても淫靡で綺麗で、エドワードは言葉を失った。
代わりにアルフォンスが続ける。
「最近この辺りで誘拐が流行ってるって」
「そう、なんだ。俺、そとの事に全然疎くて」
「僕も」
エドワードの言葉を遮って、アルフォンスの色素の薄い唇が小さく動いて息が漏れた。唇の端が軽く持ち上がってからやっと、エドワードは彼が笑ったのだと判った。
そろそろ夏に向かい暑さも本格化してきた夕暮れ、窓の外を走っていく人影に、アルフォンスは最近読み出した心理学の本を置いた。
「エドワードさん?」
首をかしげて、アルフォンスは立ち上がる。この時間に彼が外にいるのが珍しかった。大抵はあの陰気な塔に籠もって、たまに地下書庫に行くことはあっても、外を走り回ることなどない。
「この書庫のレベルじゃ、ちょっと」と言うのは、折角の蔵書を利用しないのかとアルフォンスが尋ねたときのエドワードの弁。
その言葉を聞いても、錬金術に関しては全くの門外漢であるアルフォンスは、(へぇ、やっぱりエドワードさんってヲタクなんだ)と納得すればこそあれ、すごいという認識には結びつかない。……単純にその知識量に感嘆することはあるが。
散歩中に何かを思いついたんだろうか、とアルフォンスは考えた。
子供みたいな所のあるエドワードは、何か新しい理論を思いつくと、アルフォンスと喋っていようが本を読んでいようが、いきなり立ち上がって塔に籠もってしまう。さすがに食事中に席を立つことはないが、あからさまにそわそわして上の空になって、食べ終わったと同時に一目散に走り去ってしまう。そんなところに呆れつつも、アルフォンスは楽しかった。エドワードは、きっと嬉しそうに自分の編み出した理論を語ってくれるだろう。アルフォンスが理解していないのもお構いなしに。
見た目と違って「案外」子供っぽい所のあるアルフォンスは、そのエドワードの生き生きした表情が見たくて(構って欲しくて)、塔に向かった。何の気なしに。
塔の扉を開いた瞬間、吹き出してきた異臭にアルフォンスはぅ、と出鼻をくじかれた。それまでの明るい気分を全て吹き飛ばしてあまりあるその臭いに、アルフォンスは眉をしかめる。
(こんな所居たら気が狂いそうだ)
まさかこの中でエドワードは何か作業をしているのかと、慌てて塔の階段を駆け上がる。
異臭で倒れているかも知れないという心配は杞憂だった。
部屋には誰もいなかった。
「えどわーど、さん?」
念のため、どこか陰で倒れていないかと、ハンカチで鼻と口を押さえて部屋の奥、書き机のある方へ近づいた。身体が全身で異臭を拒否している。自分が倒れないうちに、と足早に近づいた机には、この前見たときと同様に相変わらず本が高く積み上げられていた。ただ一つ、この前のセピアの写真が無くなっていたこと以外、あまり変化はなかった。
(いくらエドワードさんが小さいからって、さすがに倒れてたら気付くよね…)
机の周りに張られたカーテンに触れる。狭い部屋にわざわざ張られたカーテンは、エドワード曰く理想の錬金術師の工房を作る上で意味があるとかで、隙あらば撤去してやりたいとアルフォンスが思う家具の一つだ。
床にずったカーテンの裾は埃まみれで、アルフォンスは眉をしかめて、その埃を払うようにカーテンを揺らした。
「………え」
「よく知らなかったんですよ。部下もあんまり報告してくれなくて。僕自身最近、結構城に籠もりがちだったし」
「へ、ぇ。身体弱いもんな、あんまり無理すんなよ」
エドワードは、アルフォンスの視線から逃れるように、手元の本に視線を戻した。さっき繰ったばかりのページを、字列を追うわけでもなく指で撫でてばかりいる。アルフォンスは小首をかしげて、その様子を見ていた。
「エドワードさんはよく知ってると思ってましたけど」
エドワードは顔を上げなかった。
カーテンが退いて、露わになった床は、元々そんな色だったのではないかと思わせる――惨状だった。カーテンをちょうど境にして、まだ新しいおびただしい血痕、血痕、血痕、その血痕をすり抜けるように古い木の板が覗いている――。