その日アルフォンスが気まぐれにエドワードの元を訪れたとき、珍しくその塔の主は不在だった。
まさか居ないとは思っていなかったから、アルフォンスは一瞬、エドワードが消えてしまったのではないかと驚いた。それくらい、その部屋にいないエドワードが想像できなかった。
けれど少し冷静になって、いくらエドワードでもこの異臭の籠もる部屋に、まさか四六時中いるわけもないだろう、と納得した。研究に煮詰まって外に出ることもあるだろうし、別の部屋で仮眠を取ることだってあるだろう。エドワードが居ないことにここまで動揺した自分にも少し呆れて、それから、止めておけばいいのに部屋の中を見渡した。
エドワードの居ない部屋は、あの日、アルフォンスが初めてここに足を踏み入れたときとあまり変わらないように見えた。エドワードが居ることで隠れていた不気味さや不健全さが、我が物顔に擡頭していた。
蜘蛛の巣が払われて剥き出しになった竈や真鍮の器具の鈍い光が、それを増幅させているようだった。
エドワードはここで賢者の石の研究をしていると言っていた。
その研究は、きっとこの部屋に似合うくらいのいかがわしさに違いない。興味に駆られて、アルフォンスは、普段なら絶対に踏み出さない一歩を踏み出した。
机の上の赤い液体とか、瓶に詰められた白い燃えかすを、まるで博物館の陳列物を見て回るように眺めながら、狭いとは言えない部屋を進んでいく。
入り口から少し見えにくい影になったところに、恐らくエドワードが書き物をするための机があった。その机の上は、実験器具の代わりにペンやら書物やらが雑多に置かれていて、本来の目的である書き物をするスペースはないに等しかった。栞や付箋、終いには他の本の切れ端やペンが目印に挟まれた本を、その付箋が落ちないようにページを繰る。その本の文字はアルフォンスには読めなかった。
本を読むのを諦めて、ページを元に戻した。どうして片付け下手な人は、どうしてこう、物を積んだだけで整理整頓だと満足するんだろう理解できない、と高く積み上がった本の山に呆れながら、アルフォンスは離れた。家捜しなんてするつもりはなかったから、これ以上勝手にエドワードの研究に干渉するのは(スポンサーとはいえ)躊躇われた。
エドワードさんを探しに行こう、と出口に向かい掛けたアルフォンスの注意を引いたのは、本の隙間から申し訳程度に覗いた写真だった。それは研究一色のこの部屋の中で、異質な色を放っていた。古い物が散乱する中で、その写真立てだけが新しい木製品独特の色をしていたせいかもしれない。それはアルフォンスが思わず、看過できずに立ち止まって手に取る程。
写真立てに収まっていたのは、エドワードと黒髪の軍服に身を包んだ青年だった。
その写真は既に日に焼けて黄色く変色していたが、アルフォンスの脳裏にはあの深く青い軍服の裾が翻った。
エドワードは今より少し幼い顔、何が不服なのか、写真くらいもう少し可愛く写ればいいのに、眉間に皺なんか寄せて(エドワードさんらしいなぁとアルフォンスは笑った)、対照的に隣の青年は穏やかに笑っている。胸に掲げた階級章は「大佐」、と言うことは、案外見た目ほど若くないのかも知れない。
「あ」
とアルフォンスは思わず声を上げた。写真の隅の方、枠に隠れて見えにくかったが、古い血痕が付いていた。鮮明さを失って、それでも写真と同化しきれていない血痕。
古い写真と軍服と血痕、強烈な死の臭いがした。
ざわ、と全身の皮膚がさざ波立つ様な感覚がして、アルフォンスは振り返った。後ろには何もなかった。
雑然とした研究机があるだけだった。その上に置かれた正体不明の赤い液体が、写真の死の臭いにつられて存在感を増していた。アルフォンスは、先程何も思わず通り過ぎたその液体の入った瓶を手に取った。
「……血じゃない、よね?」
確認しても返事が返ってくるわけではないのに、アルフォンスは口に出さずにいられなかった。
手の中に持ったままだった写真に、視線を落とす。いつの間にか、掌に汗を掻いていた。
写真の中の軍人は、かわらず優しそうな笑顔を浮かべている。顔の筋肉が攣りそうな感触があった。
逃げるように塔を出た。写真をそのまま無造作に机の上に置いてきてしまったから、後で部屋に入ったことがエドワードにばれるだろうと思ったが、それにすら気付いたのは塔を飛び出した後だった。
「アルフォンス?」
と、塔を出た途端声を掛けられて、アルフォンスは心臓が飛び跳ねた。
「エドワードさん…どこ行ってたんですか?」
「え、散歩・てかおまえ、顔色悪いぞ?」
大丈夫か?と頬に触れたエドワードの手は土臭かった。
「……手に泥ついてません?」
「洗ったって」
「シャベルとバケツもって散歩ですか」
「研究材料自給自足してきたんだよ」
ほら、良い土!とバケツの中を見せられて、アルフォンスはその土の臭いに安心した。