アルフォンスが、そのあまりの不健全さに、まともな人間の踏み入れるところではないと決め付けた塔を見て(予想外というか予想に違わずというか)、エドワードは諸手を挙げて喜んだ。一般人であるアルフォンスにはとても理解できないことだが、その不必要に巨大な竈とか、蜘蛛の巣の張った真鍮の器具とかにエドワードはいたく感動して、あまつさえ正体不明の燃え滓が残る竈の中には、アルフォンスが止めるまもなく自ら手を突っ込んだ。
何十年も溜まったまま、表面が固まって石のようになっていたその残留物は、エドワードの手で動かされたことによって、まるで生き返ったかのように強烈な異臭を発し始めた。
その異臭と薬品臭さにすでに閉口、テンションとともに食欲とかそういう人間として大事な欲求も減少しているアルフォンスを尻目に、エドワードはひたすら竈の中のそれをかき集めていた。
「朝食と夕食は絶対に一緒にとること」
というのが、エドワードの錬金術研究支援をする代わりに、アルフォンスが出した、唯一・絶対の条件だった。
喉の入り口まで熱い物がこみ上げてくるのを我慢して、ようよう塔から脱出したアルフォンスは、「大丈夫?なんかきつかった?」とけろっとした顔で言うエドワードに鼻白みながら、その条件を提示した。
鼻腔の奥に溜まっていた異臭も、庭を歩き回るうちに気にならなくなって、漸くアルフォンスは胸をなで下ろす。あり得ないことだが、あの臭いが一生身体に染みついてしまったらどうしよう、と空恐ろしく感じていたのだ。
「……ほんとにそれだけ?」
塔に向かう道すがら、アルフォンスの身分を聞いて驚いたエドワードに、「敬語はやめてくださいね」とアルフォンスは言っておいた。元々敬語は苦手なのかそれとも頭の切り替えが早いのか、「身分・王子様」に驚いていた割にすっぱり敬語と決別したエドワードは、アルフォンスの真意を掴みかねて、上目遣いで彼を見た。
「それだけです。その代わり、これは絶対条件だから」
予想もしていなかったあまりの好条件に、エドワードは半ば喜んでいいのか判らず戸惑っていたから、アルフォンスはフォローもかねて、釘を刺した。
「破ったら、承知しませんから」
……そして約束は三日目に早速破られた。
雇われのまかない婦は、無気力病弱薄弱小食の主人が初めて連れてきた「友達」に喜んだ。食の細いアルフォンスに比べて、生命力に満ちあふれたこの少し小柄な(身長の小さいことを気にしているらしいことはすぐに知れた)エドワードは、成長期の少年特有の食欲を持ち合わせていたから、それまで作り甲斐のなかった鬱憤を晴らすかのような気の入れよう。最初の日の夕餉、テーブルの上に並んだ皿の数を見て、ちょっとこれ多すぎませんか、とアルフォンスが苦笑した。
食事の合図は、町から聞こえる鐘の音だった。
「あの坊やは今日は来ないの?」
最後の一皿をテーブルに乗せて初めて、まかない婦はここ数日にぎやかだった晩餐が、やけに静かなことに気が付いた。食べる前からお腹が膨れてしまいそうな量の夕食を前に、アルフォンスはとりあえず笑顔でそれに答えて立ち上がった。
あの塔には近寄るものかと心に決めた誓いを、あっさり三日目にして破ることになって、アルフォンスはかなり――自分で思っている以上に――苛立っていた。塔に近づくと仄かに風に乗ってくる異臭も今日は気にならない。塔も書物も、アルフォンスには無用だったから譲っただけ、お金も暇もあるから支援すると言っただけで、錬金術も何も、彼には全く興味がないのだ。それなのに。
「エドワードさん」
塔の階段を一気に上りきり、部屋のドアに手を置いて言う。中からはあの外で薫っていた嫌な臭いの源泉があふれ出していて、その異臭のまっただ中にエドワードはいた。小さい身体が更に丸まって小さくなって、竈の口に飲み込まれてしまうのではないかと思うくらい前のめりになって、鉄棒で竈の中をかき回している。
「エドワード…」
「違うんだ」
強い口調で止められて、一瞬アルフォンスは自分に言われたのかと、思わず口をつぐんだ。
「アルベドまではうまく行くのに」
それは独り言のようだった。ぶつぶつ言い続けるエドワードの言葉は、錬金術の知識がないアルフォンスにはまったく、異世界の呪文のように感じた。
「エドワードさん」
とん、と肩に手を置くとエドワードの身体全体がびくっと揺れた。
「ある、ふぉんす……」
すすで真っ黒になった顔に、大きな金色の瞳だけが竈の中の炎を反射して、輝いて揺れていた。
「鐘は鳴りました。約束の時間ですよ?」
「え」
と慌ててエドワードは外を見ようと窓を探して失敗した。この工房に窓はなかった。
「ごめ…」
「一回遅刻です、エドワードさん」
顔を拭いてきて下さいね、と言うとアルフォンスは未だ呆然としているエドワードを置き去りにして足早に塔を出た。
忘れていた異臭が、今頃になって肺に回っていた。