人間、権力が絡むとここまで汚くなれるのかと、アルフォンス・ハイデリヒは後の自分の後の人格形成に大きな影を落とした幼少期を想起するたびしみじみ思う。
国王の妾の子、次男坊として生まれた彼は、そのどの王国にもつきまとう呪縛(すなわち権力争い)に、母親の胎内に宿った瞬間から囚われていた。出生の瞬間、子供の性別を知った国王は溜息を吐いて、王妃は扇を折った。母親は、せめて貴方が女の子だったらと涙を流した。彼を憎悪し存在を黙殺した大人達は、彼を卑しい身分の女が産んだ王家の鼻つまみ者くらいにしか思っていなかったし、彼を卑屈な程庇護した大人達も、彼を自分が這い上がるための道具としてしか見ていなかった。彼が肺に抱えた持病のせいで、そう長くは生きられないだろうと医師が告げた時、全ての人間が彼から興味を失って離れていった。彼はこれで自由になれたと思った。
療養、と言う名目の追放先は、先々代が別荘に使っていたとかという湖の畔の古城だった。ついでにその一体の土地はおまえの物だよ、と父王は言った。何年ぶりに聞いた声だろう、とアルフォンスはぼんやり思った。
領主、とは言っても名ばかり、君命を受けた「優秀な補佐官」が「身体の弱い領主」のために全てを取り仕切ってくれているから、政治の場から隔離された古城で、一日中暇をもてあます。だからといって特に不満はなかった。住処となった古城は、元々王家の別荘だけあって、改装さえすればそこそこ住み心地は良かったし、何より行動にいちいち文句を付けられなくて楽だと思った。王宮にいた頃は、読みたい本すら自分で選ぶことが出来なかった。
古城の地下書庫 には、先々代だか先先々代だかの趣味だという怪しげな書物が山のようにあった。ついでに、まるで英雄譚に出てくる怪しげな魔術師の住んでいそうな塔もあった。書物の方は、少々ジャンルはオカルトに偏向しているものの、暇を埋めるのに不足なかった。
ただ、塔の方には辟易した。使われずに何十年も経っているはずなのに、黴臭さに加えて、すすと何かが焦げた嫌な匂いが未だに染み込んでいた。趣味の悪い調度品、アルフォンスには不必要に思われる程大きな竈(しかも中には何やら正体不明な物体の燃えかすが溜まっている!)、脈絡もなく置かれた弦楽器、本が開いて散らかされたままの机の上、床に転がった蒸溜器もすっかり蜘蛛の巣に覆われている。
「……嫌な、匂い」
余りの異臭に吐き気を覚えて、アルフォンスは一歩部屋から交代した。口を押さえて呟いた声はくぐもっていて、それが無人の部屋に響いて、殊更不気味さを演出した。一応王家の財産であるこの古城は、しかしこの部屋だけ王家の支配から逸脱しているようだった。事実、何十年と人の踏み入れた気配がない。無人の城とはいえ、管理されていたはずなのに、だ。
アルフォンスはそれから二度と、この塔に立ち寄らなかった。
誰も訪れることのなかった古城に、初めて来客があったのは、アルフォンスがその城に住み始めて三ヶ月を過ぎた辺りだった。その頃にはアルフォンスは、その奇妙で不気味で不衛生な塔のことなどすっかり忘れていて、地下にあった、まるで非現実的な錬金術や魔術の書にも飽きて、町の図書館にも行ってみるかと思い始めていた頃だった。秋から冬へ向かう季節の変わり目で、少し肌寒さを感じてアルフォンスはストーブに薪をくべた。アルフォンスと住み込みの掃除夫、町で適当に雇ったまかない(料理人とか言うほど格好良いものでもない。町の世話好きのおばちゃんだ)の住処にしては、城も庭も広すぎた。
ストーブの火が小さくなるのを見て、アルフォンスはさすがに鬱々とした。これは外に出て気分転換をすべきだと思い、コートを引っかける。途中廊下であった掃除夫に外出を告げると、彼はびっくりして数秒黙った後、行ってらっしゃいませと取って付けたように言った。
こちらに来た頃にはあった外出時の「護衛」も、アルフォンスの余りの無気力さに呆れたのか最近では付かなくなった。庭を抜けて今にも崩れそうな蔦の絡まる門をくぐる。湖の方から吹いてくる風は、冷たく水分を含んでアルフォンスの頬をさした。
「あ、の」
門の横手から声が聞こえた。予想もしなかった人の気配に、アルフォンスは驚いて青い目を少し見開いて、声のする方を見た。
立っていたのは、目つきの悪い、自分と同じか、少し年下くらいの少年だった。
金髪金眼、一つに纏めた髪が、風で揺れていた。身体に不似合いの使い込まれた大きな革の鞄。
「何かご用ですか?生憎ここは、宿じゃありませんけど」
にっこり、とアルフォンスは、その旅人然とした少年に微笑みかけた。彼の金色の瞳が一瞬揺れた。
「…この城の、持ち主に用があるんですけど」
彼は言った。なんとか平静を保とうとしているのが判った。ただ目は逸らしながらぶつぶつ言う様子は、お世辞にも動揺していないとは言い難かった。
「城主は僕ですよ。何かご用ですか?」
質問をもう一度繰り返した。少年は、え?と言う顔をした後、コートのポケットを漁って、くしゃくしゃになった封書を手渡した。
「親父の知り合いが、ここにいるって聞いたんですけど」
既に手紙は黄色がかっていて、いつの話しだとアルフォンスは思いながらそれを受け取った。宛名は知らない名前だったが(恐らくこれが彼の父親の名前なのだろう、ホーエンハイムとかかれていた)、差出人の名前は確かに見覚えがあった。
「……とっくに亡くなってます。たぶん、曾祖父じゃないでしょうか」
「あ……そう、ですか…」
差出人の名前を指でさして言うと、彼は明らかに落胆した。あー、また無駄骨かぁと呟いて、頭を掻く。
あ、なんか猫みたいだ、とアルフォンスは思った。生意気で強情そうな性格が、敬語の端々から窺い知れるのが面白かった。
「曾祖父とお父様はどういうお知り合いで?」
あ、と彼が顔を上げた。そしてアルフォンスと目があって、慌てて視線を逸らした。
「……研究を、支援して頂いてたんです。」
ああ、と思った。ホーエンハイム、と言う名前に聞き覚えがあったからだ。
「お父様は錬金術師?」
アルフォンスが暇つぶしに飛んだ蔵書の中に、何度がその名前があがっていたのを覚えている。ホーエンハイム自身の本もあったはずだ。
「………そう、デス。」
「だから貴方もここへ?」
「親父の、研究室があったって聞いたんで」
「あ、」
と今度はアルフォンスが声を上げる番だった。あの腐敗した臭いのする塔が、異臭と同時に思い出された。
つまり目の前の少年は、あんな部屋に好んで籠もりたがる人種なのか、とアルフォンスは珍獣でも見るような気持ちになった。
「……何か変ですか?」
少年が怪訝そうに言った。首を竦めてこちらを窺う様子が、益々猫っぽいとアルフォンスは思った。
「いいえ、何でも。よろしかったら、中でお話ししませんか?」
と、言う台詞はアルフォンス自身も気付かなかったが、人生初の(言うなれば)ナンパだった。