茶番だ、と黒い髪黒い目の恋人は吐き捨てた。
「何が脅威だ。根拠も実体もない、ていのいい虐殺の大義名分だ。」
そんなことゆっちゃって良いのか、とペンを置いてエドワードは呆れた。帰ってきてコートを脱いだ途端、不用意に吐き出された不穏な台詞。疑り深く狡猾な若き司令官は、どうやら自分たちに心を許しすぎるきらいがあるらしい。ランプに照らされた横顔。童顔の顔に似合わない眉間の皺、長い睫毛。
見とれそうになって、エドワードは慌てて(そんなことおくびにも出さなかったが)不機嫌な声を作った。
自分の周囲に高い壁を作る本の隙間から、ロイを睨んで言う。
「そんなこと言っててさ、俺が上にチクっちゃったらどうするの。」
「ん?」
顔を上げてこちらを見たロイの真っ黒な瞳に、思わず一瞬言葉を詰まらせる。動揺は言葉でなく指先に出た。不必要に手元の資料のページの端を、指でつまんで折り曲げる。
「そんな物騒なこと言ってて、俺がチクっちゃったらどうするのって。アンタ、どうせ上から煙たがられてるんだろ」
「うー…ん?」
真剣な顔をして黙り込むロイ・マスタング。
そんなので大丈夫なのかよと、エドワードは時々心配になる。まさか外でこんな無防備な表情だとかつけ込まれそうな隙だとか見せたりしていないだろうけれど――そんな顔を見せるのは自分の前だけで、そしてその事実が限りなく自分を幸せにしても――余計な気を揉んで勝手に不安になる。
「……困る、かな」
「困るだろうよ。反逆だか内通だかの汚名着せられてついでに俺とアルまでとばっちり喰らって3人で路頭に迷う事になるよ」
「……それは、困ったな」
「だろ」
「アルフォンスくんに怒られる」
真面目に考えて出した結論がそれか、とエドワードは嘆息した。その後ろで、恐らく徹夜になる兄のために眠気さましのコーヒーを煎れていたアルフォンスが、くすくすと笑った。
しあわせな生活は、数々の不幸の上に辛うじて乗っかった砂上の楼閣だった。こんな生活が続くはずがないと三人とも判っていながら、その悪い予感を避けて触れようとしなかった。参謀として名高いロイも、現実主義者のアルフォンスも、天才的錬金術師と謳われるエドワードも、この生活の後を言葉にするのを躊躇った。たとえそれが、もうすぐそこまで迫ってきていても。……そしてその予感は、自分を無視したことを、したたかに三人にそれぞれの形で報いた。
後方で司令官として司令部を構えていたロイマスタングに、国軍大佐ではなく、「国家錬金術師」としての辞令が下ったのは、「開戦」からしばらく経ったことの事だった。ロイが二人の兄弟にそれを告げた時、悲痛な声をあげたのはエドワードではなくアルフォンスだった。咄嗟の事にエドワードは呼吸を忘れて俯いて、いつもそうやって時期を逃してきたのを、いつも通り後悔した。
「すぐ帰ってくるよ。制圧自体に時間はかからないから」
有能なはずの司令官は、そんな事言っていいのか兄弟が思わず心配になる程事細かに現在の戦況を説明してから、言った。
「この家は私がいない間も自由に使ってくれていいから」
少し考えて、沈痛な表情の兄弟にかけたロイの言葉は、的外れ過ぎて滑稽だった。そんな言葉をエドワードもアルフォンスも望んでいたわけではなくて――
アルフォンスが倒れたのはロイがいなくなってしばらくの事だった。最初眩暈から始まった症状が、最後にはベッドから起きあがられなくなった。日に日に弱っていく弟の姿は、エドワードにかつての病床の母を思わせた。
エドワードに身体を拭かれながら、アルフォンスは遠くを見ていった。
「父さん、帰ってこないかな」
やめてくれと、手に持っていたタオルを床に叩きつけたくなった。母親も、その優しい目が永遠に開かなくなる直前、同じ事を自分に言った。彼女がそんな弱音を吐いたのはそれが最初で最後だった。
いたたまれなくなったのを今でも覚えている――エドワードも、それが一番良いことだと判っていた。それでも、自分と弟との3人の暮らしが、母親にとって(そして自分にとっても)やっぱり心細いものだったと言うことを、自覚するのは耐えられなかった。
無言になって、ついでに手も止まった兄を、アルフォンスは首だけ動かして見た。
「母さんの病気研究してたから、父さんなら、僕の体のこと、何かわかるかも知れないし」
「……あんなやつ帰ってこなくて良い」
「兄さん」
一気に機嫌を損ねたエドワードをなだめるように、アルフォンスは言った。
「早くマスタングさんが帰って来たら良いのにね」
弾かれたように顔をあげたエドワードの視線がアルフォンスとかちあう。痩せて前よりこけた頬をひきつらせてアルフォンスは笑顔を作った。
「僕は正直、父さんでもマスタングさんでも良いんだよ。ただ、兄さんを独りぼっちにするのが心配なだけ。だってそうなったら兄さんが何するかわかんないんだもん。誰か暴走を止めてくれる人がいないと……」
早く終わるはずの楽な戦いから戻ってきたのは、血のついた写真一枚とぼろぼろの階級章だった。
「アルフォンスは」
弟と、そして兄が心の底で望んでいた父親の帰宅は、それから5年後のことだった。
「寝てるよ。ずーっと」
弟のベッドの横に、呆然と立ちつくす父親を殴る気にもなれなかった。そんな気力は、とっくに残っていなかった。
暫くそうしたままでぶつぶつ何か呟いていたホーエンハイムは、気が済んだのかエドワードの振り返った。
「エドワードは?」
「……アンタと、同じことだよ」
数年ぶりの筈の会話は、お互い最小限の単語を並べただけだった。それきり2人とも黙って、親子の感動の再会は終わった。アルフォンスが父親に望んだエドワードのストッパー的役割は、全く機能しなかった。
机に積まれた本の隙間から覗くのは、エドワードが出征前にロイとうつした写真。