後編

そんな事を言った癖に、その日を境に皇帝の「お誘い」は途切れた。
声が掛からなくなって一日目は、寂しいと言うよりほっとした。昨日の言葉がまだ耳に残っていたから。

予はミュラーが好きだから。

あの気まぐれな皇帝の事だから、どこまで本気で言ったかさえ解らないのに。ミュラーは組んでいた腕に爪を立てて、思考を追いやった。
二日目も音沙汰なしで、どうしたんだろうと訝しがり、三日目には激務に追われて忘れた。誘われなくなってちょうど一週間目に、そういえば最近お声が掛からないなと一瞬胸が痛んだが、部下の自分の決裁を急かす声にかき消された。
ミュラーに再び声がかかったのはその3週間後、皇帝に手渡された書類の中に、「今夜来い」と言うメモ書きが挟まっていて、思わずミュラーは声を出しそうになって、すんでの所で自制すると、部下に見られてはいけないと慌ててメモを隠そうとして今度は書類を床に散らばらす。
端から見たら挙動不審も甚だしい。
「閣下、何をされて居るんですか」
言外に、このクソ忙しいときに、との副官の冷たい視線を受けて、なんでもないと辛うじて返答する。メモだけはしっかり掌に確保。
幼年学校の生徒でもあるまいに!と、若い頃の甘酸っさに似た空気を孕んだそのメモを、ミュラーはとりあえず懐にしまった。


「あーあーあ!その顔が見たかった!是非!」
「陛下!」
「きっとおまえの事だから、必要以上にあたふたして不審がられたんだろ!あー傑作!」
悪戯が成功した事を知ったラインハルトは大笑い。雰囲気も何もあった物じゃない。
「大体一言声を掛けて下さればいいのに、あんな後に残るような物を…!私以外が見たらどうするんですか!?」
「きっと相手を詮索するだろうな、皇帝の愛人は誰だ、と」
「笑い事じゃないですから!」
そこまで言ってミュラーは声を落とす。
「……てっきり、陛下に嫌われたかと思いましたよ」
「何を言うんだ、卿が忙しすぎて恋人を作る暇もないと言うから時間を与えてやったのに」
蒼氷瞳がきらきらと光を反射する。子供みたいだ、と思ったミュラーは、皇帝が自分より年下だという事を失念していた。
「それで、恋人は出来たか?」
それは形式的には確認ではあったけれど、確信に満ちていた。
当たり前だ、この皇帝と飲む数時間分程度の猶予を与えられても、通常の激務に変わりはないわけで、ミュラーに恋人を作る余裕なんかとてもあるわけがなく。
それを十分承知した上での皇帝の言葉、普段のミュラーなら素直にナインと応えただろうに、その時不意に「魔が差した」。

「できましたよ」

どうして自分がそう答えたのか、その後いくら考えても解らなかった。
言葉が滑り落ちていくような感覚だった。
男としての矜恃とか、そんな感情もあったのかも知れないし、たまにはこの若き天才の先見を狂わせてやりたいと少し意地悪な事思ったのかも知れない。一矢報いてやりたかった?この前はあんな事を言った癖に――とにかくミュラーは、そう答えた一瞬の軽率さをとても後悔した。


皇帝は、固まった。身動きしない皇帝は石膏の彫刻か何かのようで、白皙というより青白かった。ライトブルーの瞳だけが、埋め込まれた硝子玉のように揺れていた。
ミュラーがはっとする。
皇帝は思い出したかのように手を髪をやった。その動きも人形の様なかくかくとぎこちなくて、崩れてしまうのではないかと言うくらい頼りない。視線が行く場所をなくして絨毯を撫でた。
「陛下」
「そうか。…良かったな」
それだけを言うのに苦労して言葉を探したらしい皇帝の、絞り出すような声だった。
「帰って良いぞ、予に付き合わせるのは悪い」
「陛下」
ミュラーは少し逡巡した。冗談で言った事とは言え、皇帝に嘘をついたと申告するのは気が重かったが、それも仕方ない。
「…嘘です、恋人なんて居ません」
「………は?」
「ですから、恋人なんて、いません」
間の抜けた声を出した皇帝に、ミュラーは一言ずつ、言い聞かせるように区切って言う。
ラインハルトがぱちくりと瞳を見開く。
「……嘘?」
「はい、申し訳ありません。魔が差しました。」
「…………………なん」
「陛下が意地悪な事を聞くからですよ」
「……さいあく」
ラインハルトがそっぽを向いた。泣きそうだった瞳はまだ潤んでいたものの、口調はいつも通りで、ミュラーは安心した。
「申し訳ありません」
「もうミュラーなんか呼ばない」
「…すみません」
「ミュラーなんか嫌いだ」
「……ごめんなさい」
素直に頭を下げる。まるで恋人に不貞を責められて居るみたいだ、とミュラーは思った。そんな経験、ない癖に。
「どうしたら許して頂けますか?」
ミュラーの問いに、ラインハルトは無言で右手を差し出した。少し血の色を透かした白い指が、ミュラーの眼に灼き付く。
「ここにキスして、『一生浮気はしません』って誓え」
子供みたいに頬を膨らませてぶっきらぼうに言うラインハルトに、ミュラーは苦笑してその白い手を取った。