図書館と宿を結ぶその大通りを、資料を抱えて散歩がてら往復するのがエドワードの日課だった。
晴れた日なら途中の公園に屋台も出る。古物商が怪しげな家具を並べる横で、手作りのアクセサリーを売る女の子がいて、勝手気ままに道に古本を並べて座っているおじいさんがいる。流通、政治、経済の中心だけあって、このセントラルに集まる人の数はエドワードの故郷とは比べものにならない。気が付けば母親からはぐれた小さい子供が足元をちょろちょろしているから、エドワードは慎重に道をふさぐ人の波を縫って歩く。それでなくても両手に荷物を抱えているから。雑踏の中でそれでも嫌な気がしないのは、こんなに空が晴れていて和やかだから。
道の所々にベンチが置かれていて、この人の多さに疲れた人たちがそこで足を休めている。
――あ。
建物と建物の間、少し空間があって奥まったスペースに置かれたベンチに、いつも彼は座っていた。
いつも、と言っても正確なことは覚えていないから判らないが、ここ数週間のことだ。
「ロイ!おはよう」
エドワードはそういって、人の流れから抜け出した。近づいてくる少年に気が付いて、ロイは読んでいた本から顔を上げた。そして微笑む。まるで映画みたいだ、とエドワードは思った。ラブロマンスなんて見る柄じゃないし興味もないが、ロイのすごく格好良い顔とか、やたら気障臭い仕草とか醸し出す空気とかどこか淫靡な香水の匂いとか、きっと映画に出てくるプレイボーイはこんなんなんだ、と見たこともないくせにエドワードは確信していた。
「おはよう、と言っても昼前だけど。また夜更かししてた?」
「うん、入試もうすぐだからさ」
うんしょ、と両手に抱えていた本をベンチに置いた。ロイは微笑みながら身体をずらす。本とロイの隙間にエドワードはちょこんと座って、宿の女将が作ってくれたサンドイッチを広げた。ロイはにこにこしてそれを見ている。
そのベンチの置いてある休憩所の周りは、外界から隔離されてそこだけ時間の流れがゆったりしていた。隣に並んだベンチで、おじいさんがうたた寝をしている。
こうやって朝食だか昼食だか判らない食事の時間をロイと一緒に過ごすのが、図書館と宿を往復するエドワードの日課に加わったのはつい最近のことだ。
「勉強も結構だけど、今伸び盛りなんだからちゃんと睡眠も食事も取らなきゃ駄目だよ」
「うん。アンタだっていい大人なんだから、毎日こんな所で本読んでて仕事しなくていいのかよニート」
「私は君を思って言ってるのに…」
憮然とした表情でロイが溜息を吐いて、本に栞を挟んだ。エドワードはにやけそうになる口元を説教されてむくれる子供、のふりをして隠した。それは結構な重労働だった。だって、嬉しい。
(君を思って、だって)
エドワードはちらっとロイの表情を伺う。目があってうん?と彼が首をかしげた。自分の顔から火でも出たかと思った。慌てて視線を逸らして、何か話題は、と思った所に閉じられた本の表紙が目に入った。かなり読みふるされたものなのか日に灼けて擦れていて、題名がうっすらと消えかかっている。
「また難しい本読んでる」
「これが仕事なんだよ」
「絶対嘘だ……やだやだ、こんな駄目な大人にはなりたくない」
「だから失礼な」
ロイが大袈裟に不服そうな表情を作って、エドワードは笑った。最後の一かけを口に放り込んで、手に付いていたパンくずを払う。ちゅん、と小鳥がそれを啄んだ。
ふぅ、と息を吐いて大きく伸びる。
「伸びてもちっちゃいね」
きっ、と睨んで、右足をロイの脛に打ち付ける。
「った!」
「うるさい、殴るぞ」
「…今蹴ったじゃないか!」
「だから、それプラス殴るぞって」
向こう脛にしたたかな一撃を受け悲鳴をあげたロイを睨んで、エドワードはふんと息を吐いた。
足をさすりながら、本当にいたいんだぞと恨み言を言うロイを無視して立ち上がる。
「じゃあ昼飯も食べたし、図書館で勉強してくる。夕方は?いる?」
もう一度伸びをしてロイを振り返る。うーん、と未だ足をさすりながらロイは呻った。
「どうだろう、時間にもよると思うけど。暗くなるまではいるよ。それまでに帰ってくる?」
「うん、今日は多分」
応えながらベンチの上の本を持ち上げて顔を上げると、ちょうどその高さにロイの真っ黒い目があった。
視線がかち合って、エドワードが動揺した隙をつくように、ロイが微笑む。
「頑張ってね、エドワード」
胸が、跳ねた。
*****************
ロイと会ったのは、士官学校入学準備のためにリゼンブールからセントラルに出てきて暫くしてからだった。エドワードはとりあえず入試をトップでパスして授業料の免除を目論んでいた。母親がつてで用意してくれた下宿先に着いたその日から、図書館と宿を往復する生活が始まった。
初めてロイに声を掛けられたとき、エドワードはいつものように両腕に本を抱えて、それに加えて宿の女将が作ってくれた弁当を持っていた。
「勉強熱心なんだね」
今思うと、どうしてあの時、ロイの声が雑踏にかき消されなかったのか――それとも自分の耳が彼の声を聞き分けたんだろうか。
エドワードは立ち止まって、声がした方を見た。黒髪のかかる甘いマスクに柔和な笑みが浮かんでいる。読みかけの分厚い本を膝に置いて、自分を見ていた。
詐欺師だ、とエドワードは直感で思った。なんか怪しい、そういえば母さんもアルも言っていた、都会に行ったら気をつけないといけないって。誰でも彼でも信用しちゃいけないって。
そこで母と弟の教えを守って通り過ぎていれば良かったのに、エドワードは何故かそれが出来なかった。
肩からずり落ちてきていた鞄をかけ直しながら、
「……もうすぐ試験だから」
「試験。」
へぇ、と彼は感心して繰り返した。自分の平凡な言葉に対する反応にしては大仰だったが、嫌みでなかった。相槌を打つのが上手いというか。そして彼はあっさりエドワードの禁忌に触れた。
「小さいのに偉いね。」
誰が豆粒ドチビかぁ!と散々切れて怒鳴って宥め賺されて、気付いたらとなりに座って弁当を食べていた。見事な手腕だとしか言いようがない。簡単に手玉に取られたエドワードは、しかも気付いたときには自己紹介をして身の上話まで始まっていた。天性の聞き上手というのか、はたまたただの人生経験の差か。
「本当は錬金術師になりたかったんだ。でも国家試験難しいし、俺独学でしか勉強してないから」
どうしてこんな事こんな初対面の、しかも笑顔が詐欺師臭い男に話しているんだろうと頭の隅で疑問を感じる。
ロイは相変わらずふんふんと上手いところで相槌を打って、上手い具合に先を促される。
「セントラルで学校で勉強しながら錬金術も勉強できたらいいなと思って……軍にはいったら母さんに、仕送りも出来るし」
「お母さん想いなんだね」
「そりゃあ、女手一つでここまで育ててくれたし…弟、アルも錬金術の勉強したいみたいだし」
「お父様はなにを?」
「しんない、昔でてった」
ふーん、とロイは言った。その日初めて聞いた、ロイの興味のなさそうな相槌だった。エドワードも進んでしたい話ではなかったので、話題はあっさり違うところに移った。
弁当を食べ終わって、空箱を布巾で包む。よっと、と立ち上がると、ロイはまた一緒にお昼ご飯を食べよう、と言った。
「君と話せて楽しかった」
「っ……!!」
なんだその臭い台詞、とか、やっぱりナンパかよとか、言いたいことはあったのに言えずに、とりあえずそんな捨て科白よりよりよっぽど雄弁に耳まで顔を真っ赤にしてエドワードは走り去った。
*****************
雨の日はロイと会えない日だ。髪が顔に絡みついて気が散る。それ以上に、なんとなく昼頃――普段ならロイと一緒にベンチで食事をしている頃だ――になると何となくむずむずする。雨が降ってなかったら、会えていたはずなのに。つまんね、と呟いてエドワードはノートを捲った。紙が湿気を吸って重たい。こんこん、とペンの先で叩いて音を出す。エドワード以外誰もいない部屋に、その音が響いた。
「つまんね」
唇を尖らせて呟いて、窓の外を見た。――明日は晴れたらいいのに。
そんなエドワードの願いもむなしく雨は二日続いて、三日ぶりに約束の場所に行ったら、相変わらず彼は座って本を読んでいた。
それ以外のことをしている彼を見たことがない。仕事は何なのだろう、とかそれでどうやって生活しているんだろうとか、さすがにエドワードも疑問に思い出す。
「ずっと宿で勉強してた?」
「うん。でもなんか、最近調子悪くて」
「調子?風邪かい?」
ホットドッグを頬張りながら首を横に振る。ケチャップ付いてる、とロイが笑いながらエドワードの口の端を指で拭った。
「なんか最近すごい肩凝るんだよ、こっちの…右肩。凝るって言うかすごいなんか違和感あって」
「右肩だけ?……なんか憑いてたりして」
「ばか、んな非科学的な事あるか。ただの疲労だ疲労。」
「勉強のしすぎじゃないか?また無理をしてるんだろう」
確かに最近寝付きも悪くて寝ていないが。エドワードはなんとなく話の流れが説教臭くなりそうなのを察して、話題を変えた。
「なぁ、アンタいっつもここにいるじゃんか。仕事は?行かなくて良いの」
エドワードの言葉に、ロイは少し驚いたのか目をぱちくりして(そういえばエドワードが自分からロイのことを尋ねるのは初めてだった。茶化すことはあったけれど)、それからあのエドワードが初対面で詐欺師みたいと思った笑顔で応えた。
「ここで本を読むのが仕事なんだよ」
「何それ。やっぱニート」
「違うよ失礼な」
即答した所を見ると、少なからず傷ついたらしい。ごめんごめんと言ってエドワードは笑った。よし、チャンスだと思う。話の流れも不自然じゃない、今言っても、大丈夫。
「でも毎日ここにいるって事は暇なんだろ?今度どっか息抜きにセントラル案内してよ」
……実はこっそり、デートの誘いのつもりだった。そう悟られないように平静を装ったつもりだったが。
快諾してくれるという予想に反して、ロイは少し難しい顔をした。あれ、とエドワードは首をかしげる。
「いや?」
慌ててロイが否定した。
「いや、とか面倒じゃなくて。私はここにいるのが仕事なんだ」
「どういうこと?」
「実は」
すっとロイの顔が近づく。その距離の近さに驚いて、エドワードの身体が緊張した所に、ロイは追い打ちを掛けた。
「国家錬金術師なんだ」
「誰が!?」
一瞬固まって、半拍おいた後エドワードは叫んだ。胸倉をつかみかねない勢い、至近距離でその声を受けたロイは、耳を押さえ苦笑しながら言う。
「……私が。」
それでもまだ信じられないと、目は口ほどにモノを言う、ロイを見つめるエドワードにロイは懐から銀時計を差し出す。エドワードの視線がロイの手の中のそれに収斂した。
「だからここで毎日本を読んでいるのは決してサボっているわけでなくて、いろいろ…」
「研究のために?」
鈍色の呪縛から解かれて、エドワードがはっと顔を上げる。
「ま、まぁそういうこと…構想を練っているというか」
エドワードは興奮してロイに詰め寄った。その剣幕にロイが押されまくっているのにも気付かない。だって国家錬金術師、自分が一番なりたい職業に他ならない。合格率が2%を切る超難関、試験に受かれば膨大な研究費と望めば国家施設だって利用できる、それこそお金の心配なしに一生研究して暮らせるのだ。なんて夢のような!
「なんで今まで言ってくれなかったんだよ!俺が錬金術師目指してるって……」
エドワードが大きい声を出すのを、ロイがしっと制する。一瞬彼の目が酷く真面目になって、エドワードは思わず言われたとおりに非難の言葉を飲み込んだ。
「……そんな夢のような職業じゃないんだよ」
「そうなの?」
声を低くするロイにあわせて、エドワードも自然と小声になる。ロイが溜息を吐いた。
「国家にとって貴重な人材だからね。だから自ずと行動は制限されるし、外出時には見張りも付く」
「………今も?」
ロイの深刻な声に、エドワードは眉をひそめた。なんとなく想像していたのと違う。研究の自由が約束された悠々自適な生活。これが大人の世界ってやつか、とエドワードは思った。
「うん。今も」
だからあんまり歩き回れないんだ、とロイが済まなそうにいった。
「別にいいよ。アンタが悪い訳じゃないんだし」
「ごめんね」
「いいって。でもそっか、国練かぁ」
現実を突きつけられたはずなのに、それでもやっぱり声にありありと憧れの色が見えて、ロイは苦笑した。
「やっぱり俺もがんばろ」
よし、と立ち上がる。
「行くの?」
「うん、勉強頑張ってくる。とりあえず学校うかんなきゃ」
「そっか」
あ、とロイが言って、エドワードが何?と尋ねると、
「デートは出来ないけど、明日も一緒に話そうね」
微笑まれて、エドワードは咄嗟に弁当と参考書だけ掴んで走った。図書館まで全力疾走だった。顔が熱くて、すれ違う人に奇怪な目で見られるのにも気付かないで。
『デートは出来ないけど』
彼が最後に言った言葉を反芻する。今日一日、そればかりだ。勿論勉強なんて手に付かない、足だって地につかない。この数時間だけで、何度図書館のイレギュラーなく整然と並べられた机にしたたかに太ももを打ち付けたか。本来の役割を奪われて、ただただノートに打ち付けられていたペン先は哀れ命数尽きて廃棄処分となった。
書けなくなったペンを片手に、文字を追う努力すら放棄して、エドワードは背もたれに全体重を掛けて深呼吸した。
―――告白しよう。
今日一日、図書館で時間を費やした結論だった。決心してしまえば、それは急にそれ以外に代替案など存在しない名案のように思えた。子供のおままごとだと思われてもいい、笑って流されて――玉砕してしまうのはさすがに嫌だけれど、でも、もしかしたら。万に一つだけでも可能性はあるかも。