南部戦線は既に亜熱帯地域まで伸びていて、この史上希に見る不毛な戦い。もう双方にかなり甚大な被害を出撤退できないのは上層部のミスだろう、後に引けないところまで来てしまった。続く小競り合い、それでも国家錬金術師という人間兵器を抱えたアメストリス軍は壊滅的な被害を受けることはない、と言ってもじりじりと戦力を削られ、いつの間にか戦死者まで類を見ない数字に。上層部は撤退の理由を探している、他人事のように彼は呟いて、有能な部下がそれを咎めた。――士気に関わります。ロイマスタング大佐は、黒く焼けた顔を皮肉気に歪めた。士気なんてとっくに、と言わないのは彼の指揮官としての最後の責任。冷静な顔をして常識論を述べられる分、周囲の評価通り彼よりホークアイの方が有能だった。
「…これ、捨てていいんすか?」
「かまわん」
かまわなくないでしょう、とハボックは口の中で呟いたが、上官はもうその重要と封蝋の押された書類には興味はないらしい、相手勢力の潜伏図を睨んで険しく寄せられた眉、口元に当てられた発火布の手。デスクワークばかりで白かったはずの顔は黒く、頬は不自然にこけて。それでも光の消えない黒い瞳、見ていると思い出す。あの人はここに来て段々無表情になってきた、と悲しそうに呟いていたのはホークアイ中尉、それももう何ヶ月前のことか。退路を断たれたと諜報から報告があったときも、彼は顔色を変えずに。
「このメモは?」
書類の間からこぼれた紙切れ、呟きながら拾い上げて、ハボックはつくづく自分の間の悪さを呪った。それは無造作に破られた何か書類の切れ端で、そこにはペンの試し書きのように右上がりに走った文字――fullmetal――
「……こういうときは名前を書いた方が良かったのかな」
こういうのは見られるとやけに恥ずかしいね、と言った彼の顔は何ヶ月かぶりに、皮肉と苦笑以外で歪められていた。
そんなことがあったから、ハボック少尉はロイマスタング「少将」の葬儀の後、彼の遺した持ち物を整理していて、彼の書斎から出てきた未決済の書類――よくこんなに溜め込んでいたものだと――その裏に落書きが散見されても別段驚かなかった。それはホークアイ中尉も同じだったようで、あの人昔からペンだけはよく動いていたのよ
ね、と。ああ、それで、あんなペン握ってる割に、ペンだこなかったんだと妙に感心して。幼稚園児が描いたような猫とも狐とも狸とも見分けが付かない幼稚な絵、たまにリンゴ、それから茄子?いや多分、彼の食の好みから察すれば洋なし?くすくす笑いながら、彼の遺したそれを、2人で共有して。さてこれをどうしましょうハボック
少尉、と言ったときにホークアイ中尉は初めて涙を見せた。
こんな役回りなんかしたくなかった。出来ることならここで、ホークアイに怒鳴られて説教されて、子供のように肩を竦めるあの人が見たかった。マスタング少将は、何かと考えているようで考えていない人だったから、こんな未決済の書類、たぶん考えもなしに大量に溜め込んで。……こんなもので部下が感傷に浸るなんて思っても見なかったでしょうに。戦争前の書類なんて、今じゃただの紙切れ。そんな物であの人のを懐かしむなんて、したくなかったのに。
だから、読みかけの本に挟まった彼が恋人に宛てたメモを見ても、不思議なほどに涙は出なくて。逆にあの人が、軍人としてではなく1人の人間として、幸せだった証拠をやっと探し出せた気がして。
「兄さん、どしたの?なんかすごく嬉しそうだよ?」
「え、なんでもねぇよ」
にやけた顔をぱんっと叩いたエドワード、心なしか右頬が赤くなった気がしてアルフォンスは心配したが、彼は何でもないようで。一瞬引き締まった後に、またすぐ弛緩した顔に。
「あ、もしかして賢者の石の情報が見つかったとか?今朝、確か軍から郵送あったよ
ね?」
「うーん、うん、うん?」
兄は、適当な生返事。視線は上の空、でもどこか嬉しそうで。そんな顔、何ヶ月ぶりに見ただろう、太陽のように輝く兄の笑顔!
「にいさーん」
「なんだよー、甘えん坊だなぁ、アルは」
心優しい弟は、その何ヶ月かぶりの兄の笑顔の理由を知りたいとは思ったけれど、とにもかくにも兄が笑ってくれたことが嬉しくて――考えもなしに平均を少し下回る兄の身体に抱きついて、2人一緒に盛大に転がった。