前をゆく彼女
(ブログ4/8収録:ハボアイ戦場パラレル:noahの貸した『五分後の世界』村上龍読後の作品)
ハボックは煙草が吸いたいと思った。
喉がからからに渇いていた。爆音がした。これで3度目。
先鋒隊はどこまで行っただろう。
右前方、5メートルの茂みに麗しき狙撃手、愛しの上司に目をやった。
彼女の視線は揺るがない。
彼の金より少し色素が薄くて柔らかくて細い、彼の好きな彼女の綺麗な髪は、薄い項の産毛だけ残して迷彩のヘルメットの中に収められていた。
普段はベージュの口紅が引かれた唇は、今は迷彩と同じペイントを施されて茂みに紛れている。
鳶色のまっすぐな瞳だけが、爛々と前を見つめている。それだけは茂みに隠しきれない。
狙われてしまわないだろうか、とハボックは心配になった。彼女の綺麗な瞳。
彼のよく知る少年の、金色の瞳には負けるだろうけれど、その瞳の中の輝きだけは一級品だと思った。
そんなことを思いながら、彼女を見ていたら、今度はヘルメットの中の髪の毛が見たいと思った。
隠れているこの茂みから抜け出して、彼女の所に走り寄って、そのヘルメットを剥ぎ取ってしまいたかった。金色の髪が舞う所が見たかった。
彼女はどんな顔をするだろうか。驚くだろうか、その時、彼女の鳶色の瞳には何が映っているだろうか。
自分は映っているだろうか。
そこまで考えて、汗が目の上を通り過ぎて、頬を伝って落ちていくのが判った。そういえば、どれくらいこうしているだろう。
山中のゲリラ戦、突撃の合図はまだない。いつからこの茂みに潜んでいただろう、陽の傾きを見たかったけれど、鬱蒼とした木々の間から太陽の位置を窺い知ることは出来なかったし、たぶん太陽が見えたとしても、上を見上げる事なんて出来なかった。
動けない。
日の当たらない森は、代わりに湿度が高かった。じっとりとした汗が出て、服と髪がへばりついて、それまでは肌に浮いているだけだった汗が、堰を切ったように流れ始めたのはついさっきだった。
ヘルメットを脱いで髪を掻き上げたかったけれど、無理だった。
発狂しそうだと思った。
今何か自分の欲求に一つでも応えてしまえば、歯止めが効かなくなりそうだったからだ。
ヘルメットを脱いで髪を上げて頭を掻いて額の汗を拭いて煙草に火を付けて一服して、それから茂みを飛び出して、上司の所に行きたかった。
もう帰りましょうと言いたかった。あなたにはこんな所似合いませんよ、と言いたかった。
青黒い草も土嚢も、迷彩服も顔のペイントもリザのまっすぐな瞳を隠しきれていなかった。
もしかしたら、彼女以上に戦場の似合う女性はいないかも知れない。
どれだけ戦場に身を置いても、彼女の眼は、意志は死なないだろうと思った。
彼女はただ、この瞬間も彼女が護ると決めた人物のために動いている。
そのためにはたとえ自分が死んでもいいと思っている。そして、彼女のほんの5メートル後ろで、それを死ぬほど恐れている男がいる。
早く早く突撃の合図がなってくれ、とハボックは願った。作戦なんてどうでもよかった。
合図はまだか、と思った。
このままだと、死んでしまうと思った。