原因の判らない焦燥とかもどかしさは昔からあった。

アルフォンス・ハイデリヒは、することがなくなって時間を埋めるために開いた本の文字を追う集中力も切れた頃によくそれを感じる。研究仲間とビールを飲んで大騒ぎして、明らかに無駄な時間を消費している時とかには絶対に湧いてこない。昼間から夕方に時間が移っていく時のときのあのけだるい空気を1人で吸っている時とか、研究に煮詰まって頭を休めようとしているのに、その必要な休息を拒む頭が、研究のことを考える代わりに、生来の心の底の方に押し込んだネガティブを呼び起こした時にも起こる。


例えばそれは朝、食卓に甘くしたホットミルクを置いている時に強く感じる。夜更かし好きの、加えて寝起きの悪いエドワードがアルフォンスが朝食を用意している時に起きてくることはほとんどないから、普段通り1人でテーブルの上に載った新聞を片づけて、昨日エドワードが夜食に使ってそのまま放置された汚れた皿とカップを洗って、軽くあぶったソーセージをその洗った皿に盛って、温めたミルクに砂糖を入れている時だ。
くるくる渦を巻く白い水面から、湯気に乗った牛乳の香りが四散する。多分起きてきたエドワードは、これを見て嫌な顔をするに決まっている。ぎゅうにゅうかよ、と寝起きでがさがさに掠れた声で文句を言うのだ。そして自分はそれをやんわりと窘める。今日は多分、好き嫌いしないで飲まないと、と言うと思う。それは毎朝の儀式みたいな物だ。昨日も多分、そう言った。一昨日はアルフォンスが用事で先に出たから、その会話はなかった。アルフォンスに諫められたエドワードは、露骨に顔を歪めて、えーと言う。そしてもう一度、「駄目ですよ飲まなきゃ」とアルフォンスに言われるのを待っている。


一度喧嘩をした次の日の朝、お互い愚にも付かない(それでも酔った頭では自分が正しいと信じて疑わなかった)舌戦を繰り広げ、ビールを浴びるようにして飲んで寝ると言うより失神して起きた日。アルコールでがさがさになった喉が、肺から出した声を全部削ぎ落してしまったかのようで、喋るのが酷く億劫だったあの朝。アルフォンスはその面倒な儀式を放棄した。寝坊したアルフォンスよりも遅く起きてきたエドワードは、まず食卓の上にホットミルクが置いていないのを見て眉をしかめた。
「なんか飲み物」
言葉にならないほど掠れた声で、エドワードはそう催促した。そう言うのがやっとだと言うくらい、語尾に空気が混じった。
「勝手に入れて下さい。牛乳ならありますけど」
それに答えたアルフォンスの声も散々だった。昔、好きだった女の子に、「掠れた声がハスキーで格好良い」と褒められたのが嘘みたいだった。汚かった。
それでもエドワードは、その言葉に希望を見いだしたみたいだった。一瞬口元が緩んだのを、すぐに引き締めて、逆の表情を作った。
「俺、牛乳は嫌いだもん」
掠れ声というよりしゃがれていたが、その声はさっきより、むしろ楽しそうだった。アルフォンスはうんざりした。その声音が何よりも物語っているのだ。彼は待っている。アルフォンスに「駄目ですよ牛乳飲まなきゃ」と注意されるのを待っている。それは一度だけ聞いた、彼の弟の話だった。自分にそっくりらしい弟は、小さい時から好き嫌いがなくて、兄が牛乳を残しているのを見ると「にいさん、好き嫌いしちゃ駄目だよ」と言うのだという。その言い方が、死んだ母親そっくりで、生意気だと思ってしまうと言う。生意気、と言った時、確かにエドワードは喉の奥で笑った。
「そうですか、じゃあ勝手に入れて下さい」
自他共に認める人あたりの良さを会得する前に持っていた、生来の他人への無関心さが、二日酔いの気持ち悪さで増幅されて声に出た。
突き放されたと知った時、エドワードの顔がゆっくり歪んだ。それは小さい子供が、泣く前に躊躇する表情に似ていた。その前の晩に酒の勢いで喧嘩した時には絶対見せなかった、悲しい顔をしていた。

「エドワードさんおはようございます、起きました?」
ぺたぺた、とエドワードが起き出してきたのを見て、アルフォンスは手に持っていたカップをテーブルの上に置いた。ぐるぐる混ぜられたそれは、すっかりそれは冷めていて、辛うじてカップに温かみを残していた。
「まだねむ…」
はぁ、と語尾に被って大きな欠伸をして、エドワードは「あ」と声を上げた。多分この後、ぎゅうにゅう、と言うんだろうとアルフォンスは次の言葉を待った。そしてそれにどう答えよう、と考えている自分に気付いた。

胸の中に靄が湧いた。