無視
(馬鹿な大人の対処法2)
「そういえば鋼のは恋をしているのかい?」
東方司令部に帰ってきて、やぁ久しぶりだね元気だったかいという挨拶の後、エドワードエルリックがロイマスタングから掛けられた第一声がこれだった。
エドワードは報告書を指しだしていた手を一旦引っ込めて、溜息を吐く。
30という大台に足を掛けた軍大佐は、呆けた顔でおや、と首をかしげた。
やっぱり馬鹿だこの大人は。
そこは珍しく執務室でなくて司令室で、同じ部屋にはホークアイ中尉もハボック少尉もブレダ少尉もフュリー軍曹も居たわけだけれど、全員この突拍子もない発言に驚いた様子もない。
何事もないかのようにかりかりとペンが動く音だけが司令部に響く。
多分このメンバーの中では一番大佐の免疫がないはずのフュリー軍曹でさえ、書類をチェックする手を止めていない。ただ少し、さすがに動揺は隠しきれなかったようでああっぴちゃん、とインクのこぼれる音、何やってんだフュリー軍曹、ごめんなさいハボック少尉、手が、手が滑って…と言う悲愴なやりとりが聞こえてくる。
ちなみに、今は優しい優しいアルフォンスも居ないから、この駄目な大人に誰も優しく、何馬鹿なこと言ってるんですか、と突っ込んだりはしない。
ボケ殺しか可哀想に。
エドワードは密かに哀れんだ。確かに、この意味不明なことを突然口走る大人には無視が一番いい対処法だろう。だからエドワードも、彼らに(と言うより、その最善と思われる方法に)従うことにした。
何事もなかったかのように、にっこりと微笑んで、一旦引っ込めた報告書を再度差し出した。
早く渡してしまわないと、自分が発狂したときに、大佐ごと報告書を破り捨ててしまいたいという欲求を、抑える自信がないからだ。
そんなエドワードの中の葛藤を知るよしもないロイマスタングは、涼しい顔でご苦労と報告書を受け取って、それからまた馬鹿な質問を繰り返した。
「それで、鋼のは恋をしているのかい?」
無視。無視無視、無視に限る。自分に言い聞かせる。
「ちなみに、その対象が私だというなら大歓迎だよ。年の差も性別も気にしなくていい。私が全部受け止めてあげるから」
「まてこら」
突っ込んでしまえば負けだと判っていながら、さすがに突っ込まずには居られなかった。
どこまでも自分の中の妄想を根拠に話を作るこの大人に、エドワードは頭痛を覚えて、助けを求めてホークアイに目をやったが、その副官は長い睫毛を少し伏せて、完全に知らぬぞんぜぬで通している。
孤立無援。
ああアルフォンスがいれば、と思ったが、この汚い大人との会話に可愛い弟を付き合わせるのも気が引けて、やっぱり居なくて良かったと思い直した。第一アルフォンスは、この駄目な大人に厳しい突っ込みは入れるけれども、まだどこか夢を抱いている節がある。
夢から覚めるのは自分一人で十分だ。
「誰がてめぇになんぞ惚れるか……!」
ひぃ、と言うフュリ−の細い声が聞こえたが、目の前の厚顔大佐にはエドワードのさっきを含んだ怒りの声音も通じないらしい。
ロイマスタングはにこにこと笑いながら(多分その30年分積み重ねられた面の皮で、身に降りかかる悪意をすべてシャットダウンしているのだとエドワードは思う)、エドワードの手を取った。
「結婚式はいつにしたい?」
「…………!し、ね……!」
ぱちん、とエドワードの両の手が合わさって、錬成反応を示す光が収まった後に司令室に残されていたのは幸せそうに顔を緩めたまま気絶する司令官と、その部下。
東方司令部司令官襲撃犯は、白昼堂々司令官を殴って気絶させた後、どんどんと大きな足音を立てて司令部を立ち去った。
自分は愛されていると、信じて止まないロイマスタング29歳重傷。