Monster



ノックの音がする。


深い夜の淵からやってくる夢が俺の脳みそを食い荒らしている。深い闇の淵を深淵というらしいけれど、そういうものは多分どこにでもあって、例えば道端のゴミ箱、マンホールの裏側、反対側を歩いている女の人のスカートの中、ベッドの裏、クローゼットの中、深淵は知らない世界に繋がっていてその扉は常に閉じていて、叩いても叩いても叩いても、ノックの音すらしない。深淵の中には変わった住人だけが住んでいて、気まぐれにこちら側の扉をノックする。その音は、とても色々な音程を含んでいて、普通の世界にいる俺たちはこの音が大嫌いだ。


ノックの音は毎晩やってくる。


昨日はベッドの裏側から、その前は天井にぶらさがった明かりの中から、そして今日は、あいつの指の爪の間から。

何をしているの?

あいつの声が鳴っている。俺は無視してそいつの指先に噛み付いた。組み敷いたのは、あいつの身体。絡まる粘液に詰まる息、上り詰めていって張り詰めて突き上げられて広げられてもうぐだぐだ。俺は噛みつく、腰をくねらせる、嬌声をあげる、舐める、相手がふやけてしまうまで、舐める。

さっきからノックの音が煩いんだ。

俺は呟いてヤツの指先に噛みつく。鉄の味が口に広がる。喉を潤すほどの量はなかった。

凶暴な子だね。

知ってるよンなことは。反抗期の少年が好きなんだろ変態。変態。俺は罵る。あいつは笑いもしないで俺をベッドに押さえつける。獣の目をした大人を相手に、俺は噛み付くようなキスをくれてやる。身体ですりよってその耳に噛みつく。首を絞められる。苦しい素振りなんか見せてやるもんか。ノックの音が耳に響く。けれど、こうやっている間は、そのドアが開くことは絶対にない。絶対に。




情事の後の疲れ切った身体、汗臭いまま眠りに落ちれば、翌日は妙に爽やかな寝覚めが待っていた。ノックの音もないし、脳みそを食われる夢もみないし、あとは隣で寝てるヤツの顔さえ見なければいい。俺は、白いベッドから起き上がった。窓から差し込む太陽の光に善も悪もない、ただただ不公平なだけだ。太陽はすべてを照らしてはくれないからこんなに俺が苦しむんだって言ったら、これはとんでもない八つ当たりかもしれない。
扉の禁忌を犯したのは俺。奇妙な住人を見たのは俺。世界の影を踏んでしまったのは、やっぱり俺。

もう帰るの?

後ろから男の声がする。俺は俯き加減に振り返る。そっと、ベッドの端から視線を送って、俺は男の指を見た。昨日俺が噛み付いた怪我のあと。あれは夢の深淵。

もっとゆっくりしていけばいい。

そんなことを言って足止めをする、男の腹は丸見えだ。気づかいに見え隠れするエゴ。俺はやだよ、と言った。衣擦れの音がする。男が動いた音だろう。俺はドアノブを握ったのに上手く握れなかった。掌に汗。俺はズボンで拭った。

その扉を開くのかい?

俺はノブを握りかけて伸ばした手をぴくりと痙攣させた。そのドアは、さっきまではロイマスタングの寝室から廊下へ出るための出入り口でしかなかったはずなのに、見ればそれは見上げるほどの大きさに変わっていて、巨大な扉になっていて、見覚えのある形。目に焼きついて離れない映像と、そしてノックの音。毎夜毎夜忍び寄る、奴の叩くノックの音。

俺は叫んだ。ドアノブを握りたくないのに、あけたくないのに手が、右手が、いうことをきかなくてその扉をあけようとする。ロイマスタングの気配がする。冷たい、いやな雰囲気を孕ませた男が後ろで起き上がったようだ。背中を押されるのかもしれないと俺は恐怖したのに、後ろを睨む度胸すらなかった。目の前でノックのたびに揺れる扉に俺は完全に威圧されていて、もう瞬きもできなかった。足の先から徐々に感覚がなくなってもう自分が立っているのか座っているのかすらわからない。

扉が内側から揺らされている。俺は扉のノブを握り締めている。やめてくれ、助けてくれ。そういうことを思いながら、全く言葉にもならない言葉を必死で叫んでいた。その時、誰かが俺の名前を呼んだ。エドワード、と誰かの声がして、全身に何か大きな痛みが走って。


そこでノックの音は途切れた。







朝。起きれば爽やかな朝だ。堅く閉じられた窓の外、カーテンの隙間から零れる光。俺は、悼む背中を左手でさすった。
そういえば、なんだかおかしい。昨日みた、あの扉はなんだったんだろう、と俺は眉を寄せて一人考える。俺はちらりと視線を隣に走らせた。馬鹿みたいな顔で眠っているロイマスタング。俺はキスで窒息死とかいいかもなと考えながら、奴の鼻を摘まんだ。
「な、なんだね、鋼の。もう朝か?」
「朝。というわけで俺帰るから。」
もっとゆっくりしていけばいいのに、という奴の声に俺は冗談、と吐き捨てた。ドアノブを握ろうと手をのばして、一瞬怯む。
「どうか、したかね?」
もったいぶって聞いてくる男に俺は頭をふった。別に、何も。そう言って、気を取り直して握り直す。金色の、へしゃげてしまったドアノブを捻る。



そして俺はまた不公平な太陽の世界に戻った。