悪気はなかった。ただそこにあったのは善意であったはずなのに、ナイトハルト・ミュラーにはもうあの時の自らの気持ちにすっかり自信を失ってしまった。
あの夜、マッチを売る少年と久しぶりの再会を果たしたミュラーだったが、それはほんの一言で苦い記憶となり彼の心に沈殿した。白い雪は土にまみれて汚れ、時間とともに溶けてゆくのだろうか、ミュラーは空を見上げて嘆息した。
雪のちらつかない夜のほうが珍しい季節だ。ミュラーは馬車に乗ってようやくマフラーを解いた。が、首にかけたままでいるのは、中もそんなに温かくないからだ。馬車に暖炉はつめない。
そうしてまた、あの路地に入る。この道を通らなければ家路につけない、というわけではない。ミュラー自身がこの道を選んで走らせているわけでもない。これは彼がやとった御者の選択だった。ミュラーは、わざわざそれを否定してまで避けようとは思わなかったし、思えなかった。
馬車には小さい窓がついている。ミュラーは一瞬、視線をそらした。しかし人間の視野は案外広い。それにミュラーはその想いを完全に遮断できないでいる。
彼は、視界の端に映るフードをみた。フードは薄汚い色をしていて、馬車の跳ね返りの泥を受けてさらに汚れ、しかしそこから伸びる四肢は白く浮かび上がるほどだった。フードが揺らいで跳ねて、裾から零れた金糸をみてミュラーは今度こそ視線を外した。一瞬、こちらを見た少年の、透き通った氷の瞳に捉えられた気がして、ミュラーは冷や汗を流した。
馬車は、しかし止まることなく彼を無事家まで送り届けた。
シャワーを浴び、また悶々と考え出す午前1時。なぜこうも気にかかるのか不思議で仕方がないが、脳裏には少年の豪奢な金髪と、あの鋭い双眸がすぐに浮んできて彼を苦しめた。
馬車の中からその姿を捉えては目をそらし動悸を速め、これはもはや心臓の病なのではと自分で自分に冗談を言ってみるが苦笑どころか失笑もできなかった。
ミュラーは、もう一度彼に会わねばならないと思った。会って、謝罪して、悪気はなかったのだと言い訳をして。
よし、そうしよう。それでまた、いやもっと、彼のことを知れるかもしれぬ。彼と、仲良くなれるかもしれぬ。
ミュラーは自らの決定に満足して布団に入った。
彼のその決定は、毎晩彼自身によって同じように行われていたのだが。
そうしてまた馬車から降りれずに一週間がすぎた頃、ミュラーは意外なところでラインハルト少年と再会した。
そこは街の中で一番大きな墓地で、ミュラーは祖先の墓前に花を添えた帰りだった。
広い敷地にたくさんの墓が並んでいたが、そこでも貧富の差は明らかだった。敷地の奥へ行くほど、豪華な造りのものが立ち並び、死後でさえ富と権力を誇示しているようだった。一方出入り口か近い位置にあるものは、大きさも風貌も違っていた。苔むした小さい岩を並べただけの墓が無秩序に並んでいる。
その小さいが、丹念に洗われた美しい岩の前で、小さく身体を丸めたラインハルトがいた。
あの、いつも街頭で見かける大きなフードつきの布切れを着ていなかったから、その風になびく金色の髪がきらきらと輝いて、ミュラーはすぐにそれがマッチ売りの少年だとわかった。
ラインハルトは祈りの言葉をささげているのか、しゃがみこんでぶつぶつと何か言っている。ミュラーは聞き耳をたてた。それは、祈りではなかった。
「すまない、すまない」
それは、延々と続く謝罪の言葉だった。かすれた声の向こうにまた懺悔の言葉を連ねて、ラインハルトは小さい花を墓前に供えていた。
たんぽぽの花だった。
ミュラーは、声をかけそこねたものの、かなりの距離まで近付いていたからそのまま立ち去ると逆に気づかれてしまうと思って動けなくなった。
花を添えたラインハルトは最後に両手を組んで死者に瞑想を捧げて立ち上がった。そこで、ミュラーの砂色の瞳と目が合って立ち止まる。
「お前…」
「あ、ああ……久しぶり…」
きまり悪そうに軽くあげた右手。ミュラーは言葉につまった。ラインハルトは、目を細めただけで踵を返す。
止めなければ、ミュラーは思い声をだす。
「ちょ、まってラインハルト…」
「五月蝿い。」
しかしラインハルトは相手にしない。まっすぐに墓地の出入り口へ向かう彼を、ミュラーは軽く走って追いかけた。
「待って、話を聞いて…」
「聞きたくない、この成金野郎!」
「ッ……」
ラインハルトの言葉にミュラーは立ち止まった。俯いて、すまないと謝ると、ラインハルトは3歩ほど進んでから振り返った。
「何に対しての謝罪だ?」
「この前の、無礼に対して。」
「………悪意のない善意だったとでも言いたいのか?」
「あれは私のエゴだった。」
「?」
ラインハルトは首をかしげた。苛立っているのか、何度か首を左右に倒す。ミュラーは、続けた。思いもしない自らの言葉だったから、自分の声が唇から空気を伝って耳に響くのがものすごく奇妙だった。自分の声なのに、中身は他人のようで。しかしそれは、まぎれもなく彼の言葉だった。恥ずかしいくらいの。
「君と話がしたくて…」
「は?」
「君をひきとめていたかったんだ…」
「……??ますますわからん。」
あっけらかんと言い放つラインハルトにミュラーは笑った。それは、照れ隠しのようでもあった。
「そうだね、なんだか私もよくわからなくなってきた。」
「……変なやつ。」
ラインハルトは言って、少しだけ笑った。もう、怒ってはいないようだった。