きもだめし。
中央司令部で怪談が持ち上がったのは8月に入り暑さも正念場になった頃。
その内容は至って単純、司令部敷地内に存在する離れの廃屋からすすり泣く声が聞こえるというモノで、赴任してきたばかりのロイマスタングはその報告を一笑に付したが、時が経つにつれ噂は尾びれが付いて背びれが付いて、一週間後再びマスタングの耳にその噂が入る頃には、ついにその廃屋に探検に行った子供が消えたとか、カラスが昼間からその廃屋の上を舞うのを見たとか、野犬でもオオカミでもない奇妙な遠吠えが聞こえたりしたとか、そんな話にまで発展していた。
「……どうしてこうもそろいも揃って…」
似たような話を前にも聞いたぞ、とロイマスタングは溜息を吐く。
勿論子供が消えたなんて言う話が根も葉もない嘘だということは有能な副官によって確認済みで、後はカラスが舞おうが野犬が住み着こうが、そこまで彼の管轄内ではないし。
「良いじゃないッすか楽しそうで。ってことで大佐肝試しいきましょう。」
乗り気で報告してきたハボック少尉を一にらみして、おそらく昼休みを削ったのだろう努力の結晶(肝試しの立案書!)を丸めてゴミ箱に投げ捨てるたことで、少なくとも司令室内でその話は終焉を見た。
「あの茂みの中にある廃屋の地下が、実は昔使われてた思想犯の強制収容所で恨みを持ったまま死んだ人の霊がうようよしてるって噂ほんと?」
さてここまで噂が飛躍しているとなると何とコメントすればいいか。ロイマスタングは書類に判を押す手を止めて、にやにやと笑いながら(大方言った本人もガセだと認識しているのだろう、人の悪い笑みがそれを物語っている)ホークアイ中尉の入れた紅茶を堪能しているエドワードエルリックを一瞥した。
「かの高名な鋼の錬金術師殿が幽霊の類を信じるとはね」
「探求心旺盛と言って欲しいねぇ、お化けにびびった焔の錬金術師殿」
「………誰にそんな」
「司令部中で噂になってたぜ。アルがゆってた」
頻繁に司令部内に出入りしているエドワード1人ならともかく、今ここにいない(おそらく今日は中庭でブラハと戯れているのだろう)比較的市街の図書館を行動範囲にしているアルフォンス少年までもその噂を聞いたというなら、その噂の流布は大概なものではないか。
ハボック少尉…!と根拠がないながら確信に満ちた表情で、おそらく腹いせに不名誉な噂を吹聴したであろう部下の名前を呻いて舌打ちする。イーストシティの司令部で幽霊騒ぎがあったときに、先頭に立ってやったのは誰だと言ってやりたい。
そんな事情を知らないエドワードは、嬉しそうににやにやと嫌らしい笑みを浮かべたまま。
どうやら稀代の科学者エドワードエルリックにとっては、非科学的な幽霊云々よりもロイマスタングがお化けにびびったという噂の方に興味を引かれたらしい。
「…噂の類は一度冷静に現実と突き合わせて信用に値するか吟味すべきなんだが」
あまりそれ以上しつこく言うのは自分でも言い訳臭い気がしてロイは口をつぐんだが、何となく悔しかったので後でハボックを苛めてやろうと思うことで溜飲を下げる。とりあえず、彼がこんな風にけしかけてくると言うことは、後に続く話題も大体想像できてロイは嘆息した。
「怖くないならさ、肝試しやろーぜ、なぁ大佐」
「その必要はないよ」
予想に寸分も違わぬ話題展開に、こちらも用意しておいた返答を返す。
「なん」
「ハボック少尉から報告書の提出を受けた際に実際その廃屋に行ってみたがね、あそこは元々園丁の作業用物置が老朽化されて廃棄されたモノで、地下室とか留置所とか君たちが言うような物騒なものはまったくなかったよ。」
「……ちぇ」
舌打ちの後に、つまんねぇのと拗ねた声。年相応のその態度に、ロイは笑った。エドワードの反応が可愛らしかったせいもあるが、自分の偉そうな言い様に苦笑を禁じ得なかったから。――まさか好奇心に負けて様子を見に行きましたとは言えない。
にっこりと極上の笑顔を浮かべて、腕を組み直すとロイマスタングは話題転換を試みた。
「まぁ鋼の、そんな廃屋なんかより私の家で肝試しでもしないかね」
「あんたんちの書斎だろ。いつ本棚が倒れてくるかわかんねぇもんな…肝も冷えるぜ…!」
「失礼な」
この前ハウスキーパーを雇って掃除させた、と言うロイマスタングに、それじゃ何の解決にもなっちゃいない、とあきれ顔のエドワードエルリック、まぁ飯奢ってくれるならと言いかけたときにそれを中断させたのは廊下を踏み鳴らし駆けてくる軍靴の音。
「…どうした?」
「ひどいっすよ大佐!」
おなざりなノックの後、息も絶え絶え(相変わらず落ち着きのない奴だとロイマスタングは呆れた)ハボック少尉は、トレードマークのくわえ煙草もどこへやらけほ、と一つ咳払いしてから、非難の声を上げた。
尋常ならざるハボックの様子に、エドワードはロイとハボックの顔を見比べた後、あ、と声を上げ心底気の毒そうな顔をして
「なに、大佐、またハボック少尉の彼女とったの?」
「そんな何度もとられてたまるかよ!」
「そうだぞ鋼の。そもそもハボック少尉と私とはストライクゾーンをあまり共有していないし、今好きなのは君だけだし」
「で、ハボック少尉どうしたの?」
さらっとロイの言葉を受け流して、エドワードは小首をかしげる。ハボックはばっとくしゃくしゃに折り目の付いた書類を2人に付きだした。それは紛れもなく、数日前にロイによって破棄されたはずの肝試し立案書。
「おまえダッシュケース漁ったな…」
「そんなことはどうでもいいんですよ!大佐!なにが『あそこは何の変哲もないただの物置小屋だ』ですか!地下室あるじゃないっすか!」
ホークアイ中尉に見つからないよう執務室を抜け出し、現場に直行したロイマスタングとエドワードエルリックは、廃屋の入り口で待っていたブレダ少尉の敬礼を受けた。
「……本当に地下室が?」
「今朝、通常業務をサボってハボック少尉がこの廃屋に侵入した際、床に大きな穴が空いているのを発見、中を照らしてみたところ、少なくとも長さ数十メートルに渡って廊下が続いているのを確認しました。」
ブレダの報告に、ハボックは慌て、ロイはほぉ、と顎の辺りを発火布をつけた手で撫でた。
「悪い事って出来ないもんだなぁ…」
心底同情した顔(先程とは比べものにならない)でしみじみと呟き、入って良い?とブレダに尋ね、ロイが静止するまもなく小屋の中に入ったエドワードが、へ〜と感嘆の声を上げた。遅れて小屋に入ったロイは、薄暗い屋内に一瞬視界を失ったが、すぐにエドワードの金色の頭越しに確かに闇色の入り口が口を開けているのをみた。エドワードがロイを仰ぎ見る。
「……ほんとにアンタ、ここにきたの?怖くて外見て帰ったんじゃなくて?」
「失礼な!」
言いつつ、確かにロイも動揺していた。数日前に来たときには、こんな穴は確かになかった。しかし現に穴は存在して、しかも穴の周囲の床板は埃が溜まって古びてはいるものの朽ちているようには見えず、床が抜けたわけではないと言うことは明らかだった。
穴の周囲には埃が堆積したままで、ハボック少尉とブレダ少尉のものと思われる2人分の靴跡以外に埃の薄い部分はなく踏み荒らされた気配もない。人為的に後から開けられた、と言うわけではなさそうで。
「……まさか」
「いいじゃん、入ってみようぜ」
明かりかしてーと言うと、いつの間に入ってきていたのか、ハボック少尉が嬉々としてランプを手渡した。
「ちょ、まちたまえ!」
「怖いんなら残ってもいいっすよ?どうせ調べなきゃ行けないんだし」
「やっぱ大佐怖いんだ〜」
「違う!人のはなしを聞きなさい、鋼の!」
ぴょんと身軽な動作でエドワードが穴の中に吸い込まれるように消え、ハボック少尉がそれに続く。覗き込むと、意外と深い穴の底、エドワードとハボックが明かりを手に談笑しているのが見えた。仕方なくブレダ少尉に、一時間して戻ってこなければホークアイ中尉に連絡しろとだけ命令して、ロイも彼らに続いた。
穴の中は、確かに延々と直線の廊下が続いていた。採掘のために掘られたトンネルの類でないことは、コンクリで綺麗に舗装されていることからも明白。大人2人並んでも優に通れるほどの幅の道が、方角で言うと敷地の枠に沿って延びているらしい。
「司令部の下にこんな地下道があったんすねぇ…」
一番背の高いハボック少尉が、先頭でランプを掲げて呟く。その声は広い廊下の中でわずかに反響して、すぐに四方の闇に吸い込まれていった。
言いようのない不気味さに、煙草が欲しい、と弱音を漏らす。
「……道、ではないな」
最後尾のロイが立ち止まり、エドワードがえ?と顔を上げた。上からの明かりに照らされた彼の表情には、さすがに生来の快活さが影を潜め、わずかばかり不安の色。
「コンクリの色が違う」
ハボックが手招きされて、ロイの指さす壁を照らす。人1人が通れるくらいの幅の壁が、わずかに周囲と色が違っている。少し周囲を見渡すと、両方の壁伝いにその色が違う部分が、等間隔に並んでるのが視認できた。
「鋼の、これを壊せる?」
「やってみる」
ぱぁんという威勢のいい音も、闇に吸い込まれるしかなかった。両の手を合わせ、壁に手をつけると仰々しい意匠の大扉が壁から浮かび上がる。
「…無理、この向こうなんもないよ」
エドワードが溜息を吐いて、扉の取っ手を引いて見せた。扉はぴくりとも動かない。
「え、じゃあこれは?」
「表面扉の形してるだけで…この壁の向こうに空間がないから、張りぼてと一緒。」
へぇ〜と興味深げにハボックが扉を叩く。趣味が少しばかり人とは外れているとはいえ、精緻な細工の扉を一瞬で錬成する様は、錬金術師でないハボックにとって何度見ても不思議で仕方ない。
「……後からコンクリを流し込んた?」
エドワードが隣で何も言わないロイを見上げる。彼は難しい表情をして、コンクリのつなぎ目を手袋に覆われていない手で撫でた。
「そうだろうね」
もう少し奥に進んでみようか、とエドワードを安心させるように少しばかり微笑んでロイは言った。
どれくらい歩いたかは解らないが、手元の銀時計を見るとそれほど時計の針は進んでいなかった。後ろを振り返っても、そこには闇ばかりで、自分達が入ってきた入り口は見えそうにない。
誰も声を発しようとせず、沈黙ばかりが耳にいたい。
「……どこまで行くの?」
一番最初に、それを言ったのはエドワードだった。普段気丈な少年が、弱々しく(しかしそれを必死でかくして)撤退の提案をする様はとても可愛らしかったが、ロイもハボックも笑う気がしなかった。2人がそれを口に出さなかったのは、年長者としての意地があったからで、正直エドワードの提案に救われた気がしたのだ。
ロイとハボックは、エドワードの頭上高くで視線を交わした後、エドワードの言葉を受け入れることにした。
しかし2人が身体を反転させ、元来た道を戻ろうとしたときにそれを静止したのはエドワードだった。
「これ、錬成痕だ」
ぱっと壁にしゃがみ込んで、エドワードが2人を呼び止める。
渋々、と言った感じでハボックはエドワードがさした壁に耳をあてこんこんとノックをする。
「……確かに空洞がありそうっすね」
「おっしゃ!任せろ!」
状況が動いたことで活力を見いだしたのか、張り切って両手を打ち鳴らす――正直早く帰りたいという2人の年長者を無視して。
壁が崩れた先――そこは小さな研究室のようだった。
割れたビーカーやガラス管が散乱し、机上ではレポート用紙がこぼれて広がった緑の液体につかって変色している。まだ明かりが生きていて電灯の周りをぽっと照らし、それが逆に異様な雰囲気を醸し出している。
「…なんか不気味」
子供らしい素直な感想をエドワードが述べて、ロイの軍服を裾を掴んだ。普段なら諸手を挙げて大喜びできるのに、状況がそれをロイに許さない。
ハボックは相変わらず、開き直ってしまえば怖いものなしなのか、割れずに残った標本や怪しげな液体をぐるぐると楽しそうに見て回っている。その図太さにある種、感心の念を抱く。
エドワードもさすがにいつまでも不気味がっているわけはなく、何か実になる研究資料――つまりは賢者の石の情報がないか、散乱したレポートや本棚に数冊残った資料を手に取って目を通している。
「何か参考になるようなものはあった?」
ふるふるとエドワードが首を横に振る。
ここまで怪しく、秘密の研究をするのにお誂え向きな場所、少しは期待しただろうにどうやら徒労に終わったようで、エドワードは溜息を吐いた後、落胆したのかわずかに俯いた。
ロイは1人、薄暗い(とは言っても、先程の廊下とは比べものにならないくらい明るい)研究室を奥へと進んだ。小さい、と言うのが研究室に足を踏み入れたときの第一印象だったが、案外奥行きがあって広い事に気付く。しかしそこも、相変わらずガラスと正体不明の液体の海。
「大佐ー」
ハボックの呼ぶ声。ロイは振り返らずにその部屋の惨状を見ながら言う。
「…とりあえず調査隊を編成させた方が良いな。ハボック、有毒ガスの発生もないようだし、一旦上に戻って」
言いかけて、ロイはふと部屋の最奥に視線をやった。引き寄せられた、と言うべきか。
そこにはやはり、動物の胎児とも肉の塊とも言えない物体が、棚に整然と並んで揺蕩っていたが、その中に一つ、明らかに人間の頭部の形をして、脳を露出させたそれの眼が、ロイを見ていた。
「大佐ー?」
ハボック少尉の声。ロイはそれを、どこか遠くで聞いている様な錯覚を覚えた。
ここからだして
頭部がそう言っていた。ロイは一歩足を踏み出す。
「大佐ー?」
つぎに聞こえたのはエドワードの声だった。けれど、やっぱりその声は遠く、薄皮一枚隔てたどこか違う世界で響いているような気がした。
ここからだしてたいさたいさここからだして
散乱する本や、ガラス片を気にせず踏み超えて、彼は標本に近づいた。
もう一度彼は自分を呼ぶ声が外から聞こえた気がしたが、遠すぎて誰の声かは解らなかった。
ここから
標本に手を触れようと右腕を伸ばした瞬間、頭部がかすかに微笑んだ。
「ロイ!」
その薄皮で覆われたような世界を破ったのは、懐かしい声だった。肩を捕まれて振り向く暇もなかったが、その手の感触は確かによく知ったものだった。
意識が混濁する。暗転する意識の中、ロイは彼の名前を呟いた。
ここからだして、と取り残された声が聞こえた。
マスタング大佐が次に目覚めたのは、医務室のベッドの上だった。まず白い天井が眼に入り、次にシーツからはみ出た腕が、包帯で巻かれているのに気が付いた。ぼんやりと靄の掛かる視界を転じると、医務室の入り口にホークアイ中尉が居るのが見えた。
「…起こしてしまいましたか?」
「あー…いや」
どうやら、彼女がドアを開けた音が覚醒の引き金になったらしい。動かない右腕に不自由を感じながら、彼は左手で目に掛かる前髪を払った。
「すまないが、全く事情が飲み込めないんだ」
「そうでしょうね」
呆れるように言う彼女の声に、怒気が含まれていないのは意外だった。自分は執務を放り出して、鋼の達と肝試しに行ったのではなかったか。
「二日も眠っていらっしゃったのですから、さすがに充分でしょう。今日からはしっかり遅れを取り戻して頂きますから」
「あの、中尉」
「崩壊した廃屋の下敷きになって、頭部と肩を強打、右腕にひびが入って全治三ヶ月です。」
「は、はぁ…」
淡々とまっすぐに目を見て言う彼女に、ロイは気圧されながら、地下で彼らが見たことを手短に話した。
…最後に肩を掴まれたことだけは、言う必要はないと判断したが。
最後まで話を聞いたホークアイは、少し疲れた表情で息をつき、
「……先に目を覚ましたエドワードくんとハボック少尉、それから、ブレダ少尉からも、その地下施設のことは報告を受けましたが」
そういえば、いつもの覇気がないな、と報告を受けながらロイは思った。ロイが倒れて、彼の責務はほとんど彼女が肩代わりしているのだろう、うっすらと眼の下には隈が出来ている。それでも彼女は、気丈に告げた。
「廃屋の地下に、そのような施設は認められませんでした。」
そういえば、とロイはホークアイ中尉が退出した後1人でぼんやり天井を見ながら、考えた。自分が最初1人であの廃屋に行ったとき、あそこはもう潰れかけて、朽ちかけていたのではなかったか。剥がれた壁から陽の光が入って、とても明るかったことを思い出す。
それが、2回目はどうだった?
エドワードとハボックは、地下で研究室など見なかった、と言っている。急にロイが消えた、と。
なら、あの研究室の中でロイが話したエドワードは誰だったのだろうと。
あの、ハボックとエドワードが遠くで自分を呼んでいたのは、自分の姿が突然消えたから?
そこまで考えて、痛みを感じて左手を頭にやった。前髪が変なところにたれてくるのは、どうやら包帯を巻いているせいらしい。
標本に手を伸ばそうとした自分を静止したのは、とロイは右肩をさすった。肩に頭程の痛みはないが、ありありと思いだせる、あの時の声と、感触。ヒューズ、と口の中で呟いてもう一度目を閉じたとき、頭に包帯を巻いたエドワードが大佐おはよー!と医務室のドアを開けた。