ちょっと兄さん!と怒気を孕んだ声がリビングから聞こえる。追って荒々しい足音が近づいてくるのを察したエドワードは、素早い動作で(しかし焦らずに)眼鏡を取り、読んでいた本に栞を挟み、枕元の電気を消した。布団を頭まで被り、ふっと息を吐いて気配を消したのとほぼ同時に、アルフォンスがドアを開ける。
「兄さん!寝たふりしてるのは解ってるんだからね一瞬前まで明かり付いてたんだから!」
早口でまくりたてると、躊躇なくエドワードの隠れ蓑的役割を果たしていた布団を剥ぎ取った。
「………なに」
いきなりの無体、それでもまだここまではエドワードとしても予想の範囲内。慌てず騒がず(取り乱した方の負けだ)最後の抵抗として、ここまでされて狸寝入りは逆効果だから、いかにも今起こされましたといった風に、少し寝起きの甘ったるい作り声で応じる。
「そんな声出しても駄目だよ兄さん。起きてたのは解ってるんだからね。ちょっとこっち来なさい」
「うっせぇなぁ…なんで起きてたって言い切るんだよ…おれは眠いの、起きれないー」
明らかにお説教口調の弟に負けじと、ごそごそと布団を被り直してベッドの中を堅持する。
往生際の悪い兄に、アルフォンスは半眼で睨むと、兄の無造作に纏められたポニーテールを掴んで顔を引き起こした。
「起きろ馬鹿兄」
「………はい」
弟の羽布団も突き抜ける冷たい声に小細工も万策も尽きて、エドワードは素直に従った。
「兄さん何回言ったら解るの!こっちの大きいゴミ箱が生ゴミで、こっちの小さい袋がプラスチック入れなの!」
ベッドから引きずりだされて、何事かと思えば、連れてこられたのは台所。
アルフォンスはアイスの袋とチョコレートの包装とを兄の前に突きだして語気を荒げる。
そのゴミは両方とも、エドワードには見覚えがあって(当たり前だ、寝る前に自分が食べたのだから)、しかも今日はロイが来ていないから、この家でゴミ箱にゴミを捨てるのは自分かアルフォンスしか居なかった訳で、とぼける事も出来ない。
「うー…ごめん、面倒でさぁ…」
「兄さんがちゃんと分別してくれなきゃ、気付いた僕がゴミ箱に手を突っ込む事になるんだけど?」
アルフォンスの声は氷点下を下回る鋭さで、言っている事も正論なものだから、もうすんませんとエドワードは頭を下げるしかない。
「大体兄さんはいっつもそうじゃない、僕に掃除も洗濯もさせてさぁ、ご飯だって僕が居なかったらどうするんだよ一体!」
この春から始まったゴミの分別にエドワードは甚だ無関心で、自分でゴミを捨てればまだ良い方、ゴミはそこら中に転がしっぱなし服は脱ぎ散らかしっぱなし。いつもはアルフォンスぷりぷり言いながらも掃除をしているのだが、今日はたまたま部活の試合で夜遅くに帰宅。ちょっとは自分で片付けをしてくれているかと期待してみれば、案の定、テーブルの上は何を食べたか一目瞭然なコンビニのパックの数々、さすがに洗濯物は取り込んでいてくれたものの、山のように積んで当たり前のように放置され、クソ寒いのにベランダは開けっ放し。
挙げ句の果てに読みたい本があるからと、疲れたアルフォンスより先にベッドに向かった馬鹿兄は、食べたアイスとチョコレートのゴミを生ゴミ専用ゴミにぽいっと投げ入れる。
……ここまでされて、さすがのアルフォンスも黙っているはずがなく、ひたすら兄を甘やかしてきた自分の判断ミスを悔やむばかりである。(なんて熟年夫婦みたいな喧嘩の理由でしょう、今流行の熟年離婚したがっている奥さん達の気持ちが分からないでもないアルフォンス。弱冠17歳)
あの研究畑、家事には無関心そうだった父でさえ、休みの日には食器を洗う姿を見た事があったというのに!
「やっぱり母さんはすごかったんだなって思うよ、あの父さんを上手くコントロールしてたんだから」
「あ…アル…?」
思い出に浸って、しみじみと過去を回想する弟に、逃げる糸口が見つかったかとエドワードが期待して声を掛ける。が、その希望も一瞬で砕かれた。
「僕は兄さんを甘やかしすぎたと思う」
「は?」
「明日から掃除当番兄さんね」
「な」
「僕、朝練前に起きて片付けして行ってるんだよ?なんで出席日数ギリギリの兄さんが同じ事出来ないのさ」
痛いところをつかれて、エドワードは言葉に詰まった。確かにそう言われてみれば、この出来る弟に甘えずぎていた面があったかもしれない。
「……わかったよ。掃除すりゃいいんだろ」
そこであっさり折れてしまうのは、兄として、普段から弟より怠惰な生活をしているという後ろめたさが常にあるからなのだが。
眠そうな顔に、それでも反省の表情を滲ませる兄に、アルフォンスはにっこり笑う。
「でも兄さん1人に任せたら、掃除してても家が汚くなっちゃうから」
「おい」
「僕もやっぱり手伝うよ。一緒に掃除しようね」
と、それでエドワードはやっとその晩解放された。
さっそく翌日、部活から帰ってきたアルフォンス監督の下、エドワードが掃除機を掛ける。
「兄さん、はじっこゴミ吸えてない」
「はいはいはいはい」
小姑よりうるさく細かく汚れを指摘していくアルフォンスに、一抹の殺意を芽生えさせながらも、(怖いから)素直に従うエドワード。台所の掃除を終えて、リビングに移動、物はちゃんとどけて掃除機かけてね、アルフォンスの指導に従って、いつもアルフォンスが使っているクッションをどけたとき。
「……あれ?」
「あっ…!」
エドワードがその雑誌を拾い上げるのと、アルフォンスが焦って声を上げたのは同時だった。
「アル……エロ本リビングに置くなよ」
「うっさいな…!」
アルフォンスが真っ赤になって言う。普段自分が掃除していたし、兄もアルフォンスの定位置を触ったりしないから、そこに置いていたのをすっかり失念していたんだろう――アルフォンスらしからぬ失敗だなぁと、なんとなくエドワードは嬉しくなる。
「まぁ気持ちは分かるけど…」
それ以上からかう気はエドワードにも毛頭なかったから(アルフォンスがその手の本を買う様には見えなかったから、友達から貰ったんだろうという事は何となく想像が付くし)、その雑誌をもういちど床に置いて、上からクッションを乗せる。
「てか、おまえでもあんなの読むんだな」
アルフォンスは兄の贔屓目を差し引いても抜きんでて格好良くて、実際女の子にも持てていたし不自由してる様子もなかったし、何よりアルフォンス自身がとても淡泊そうだったから、それは兄としての素直な疑問で。
「……だって仕方ないじゃないか」
むぅ、とむくれてアルフォンスが言う。
「なにが?」
「満足できないんだもん」
「身体の相性あわないとか?」
なんだ、アルフォンスにもそんな悩みがあるのかーと、エドワードの兄貴としての一面が頭をもたげたとき。
「だって僕、兄さんのが好きだし」
拗ねながらもさらっと爆弾発言をかましたアルフォンスに、エドワードは一瞬固まって、対応に困りかねて苦笑いするしかなかった。
「いや、おれもアルの事好きだけどな」
「だって兄さん最近マスタングさんとばっか遊びに行くし」
う、と昨晩に続き、またもやエドワードは図星を突かれて黙った。
そういえば最近ロイにかまけて外泊したり午前様だったり、好き勝手していたのは事実で。
「ご、ごめんな、構ってやれなくて」
「僕だって兄さんと色々したいんだけど」
「っ……!」
不意打ちでそんな事を言われて、エドワードは絶句する。
確かにこの弟の、自分への執着ぶりとかロイへの剥き出しの敵愾心とかは知っていたけれど、まさかそれをここまで直球で告白されるとは。
「あ…アル、俺たち兄弟なんだけど」
「うん、知ってるけど。兄さんは嫌?」
母親似の綺麗な顔で、少し困った顔でそんな甘えた声を出されては、まさかエドワードに対抗できるわけはなく、うっ…と言い淀みながらも、嫌じゃないけど…、と言葉を濁す。(まったく、にらまれたり怒鳴られたりするよりずっと効果覿面)
「嫌じゃないけど?」
アルフォンスが言いつのる。追いつめられて、エドワードは必死で言葉を探す。
「けど…」
じぃっとエドワードを見つめるアルフォンスは引きそうにない。こうなったら兄より頑固なのは、生まれたときからの長い付き合いで解っている。
仕方なしにエドワードは、その時出来る最大限の譲渡をしてアルフォンスに応えた。
「キスだけなら…」
「わーいほんと?じゃあおかまいなく!」
「し、舌いれんな!!」
その晩、アルフォンスの積極的すぎる愛情表現から辛くも逃げ延びたエドワードは、とりあえず明日から貞操には気をつけようとベッドの中で心に誓った。