『全てがうまく行くことを信じて、貴方にこの手紙を書いています』
それは寒い冬のことでした。
機械鎧の付け根が痛む程、冷気が躯に突き刺さる朝だった。
冷気でベッドに縫いつけられたように身体が重いのを、振り切って起きあがる。視界の端に写る、机の上に散乱した資料。一気に忘れていた昨日の失態がよみがえってうんざりした。
資料の上、さすがに誤魔化しようのない、コーヒーの匂い立つような黒い染み。普段飲まないのに、眠気さましに入れたコーヒーがまさかこんな仇になるとは思わなかった。右腕が当たってしまったのは一生の不覚だ。広がるシミを、天才と名高い史上最年少国家錬金術師エドワード・エルリックでも止めることは出来なかった。
上司から借りた貴重な資料、故意ではないとはいえ、汚したことを謝りに行くのが憂鬱だったが、まさかここで逃げるわけにも行かない。いけ好かない上司だが、恩はある。貴重な資料を、こうもぽんと他人に貸せる器量の良さは見習うべきで、その恩を仇で返してしまったのだから当然謝らなければならない――のだが、どうもそれを考えるのが憂鬱すぎて、明日のことは明日考えようととりあえず昨夜は夢に逃げてみたものの、否応なしに朝はきて、自分がしてしまった失態を白日の下晒している。
「とりあえずまずどっかで朝飯を食べて――」
ぶつぶつ良いながら起きあがって、椅子に掛けていたタオルを肩にかける。開ききっていない声帯から出るのはがさがさの独り言。
「それからホークアイ中尉あたりに大佐の様子偵察して…だな、大佐が機嫌の良い時を狙って、とりあえずごめんって謝ろう、うん。」
1人でぼそぼそと言ってから少し間をおいて、もう一度自分に言い聞かせるようにうん、と呟く。
「完璧だ」
何が完璧なのか自分でも判らなかったが、言い聞かせることで少し気分は軽くなった。
ペリペリになった資料のページを、くっついていないか慎重に確認して鞄に入れる。それでも足が重いのは、荷物と寝不足のせいだけではないはずだ。
はぁ、と何度も溜息を吐いて、やっとたどり着いた司令部。来る途中で食べたホットドッグの味は、すでに嫌な気分に押し出されて忘れてしまった。コーヒーを見る度に、昨日の夜中の、あの自分がカップを倒した瞬間が浮かんで更に気が滅入った。
はぁ、ともう一度、溜息を吐いていたら後ろからエドワードくんおはよう、と声を掛けられた。
「おはようございます」
と振り返って返した先には、相変わらず朝から隙のない上司の副官。ホークアイは両手に抱えた資料を持ち直して、エドワードの隣に並ぶ。
「今日は朝から早いのね、大佐に用?」
「う……ん」
自分の失敗を誰かに聞いて欲しくて、言いかけたが止めた。慰めて貰って気が軽くなるより、自分の失態を彼女に晒すことの方が後々恥ずかしいと判断して、エドワードは曖昧に頷いた。ホークアイは、うん?と首をかしげたが、エドワードの顔を見て、それ以上追求しなかった。師匠の元で修行していたときに、彼女の夫が見せた表情によく似ていた。落ち込んでいる子供の対応に悩む、大人の顔だ。
「そう、大佐なら執務室にいらっしゃるから。」
両手の開かない彼女に代わって、司令室の扉を開けてやると彼女はありがとうと嬉しそうに微笑んだ。
「あんまり無理しちゃ駄目よ、エドワードくん。」
ロイ・マスタングは、その執務室でいつものように書類の山に囲まれていた。エドワードが入ってきたのを見て、彼はにへら、と嬉しそうに笑う。そんなに喜ばれたら困る、とエドワードは思った。鞄の中の、汚れてしまった資料がやけに重い。腕がだるい。
「朝からどうしたの、こんな早くから顔を出すなんて珍しいね」
謝りに来ました、大佐に借りていた資料を汚してしまいました。ごめんなさい。
「なに?」
ロイは顔を上げた。自分を見た。執務中だというのに、こんな子供に構っていて良いんだろうか、とエドワードの思考は逃げに走った。怒られるかも、と言う不安が広がったが、杞憂だった。彼が顔を上げたのは、エドワードの声が聞こえなかったからで、彼の方が不安そうにエドワードを見た。
「また、なにかあった?」
「この前借りていた資料を」
畳みかけるように言った。ロイの表情が、自分よりも不安そうだったから、逆にエドワードは焦った。
「資料?」
「昨日コーヒー零しちゃって…」
ロイの言葉を遮って、どん、と勢いよく鞄を下ろす。留め金を外して、一番上に置いていた本を掴んで突きだした。
「ごめんなさい」
「あ」
ロイは一瞬ぽかんとして、間抜けな声を出した。それから少し笑って、それくらい構わないよとお腹を抱えながら言った。
「いや良かった、君があんまりにも深刻な顔をするものだから」
「だって悪いと思ったんだよ!」
照れ隠しに叫んだのは逆効果だった。糸が切れたようにひぃひぃと笑うロイに、さっきまでの自分の深刻さが許せなくなって、エドワードは顔を真っ赤にして笑うな!と言った。
「だいたい、アンタだってよっぽど深刻そうな顔してたじゃん、何言われると思ったの。」
どーせ大方出勤早々サボってたんだろ、中尉にチクられると思ったんだろチクってやろうか!と、怒られないと判った途端強気なエドワードは、そのギャップがロイのつぼを刺激している事なんて気付かない。
小生意気な子供が顔を真っ赤にして怒るのに、ひとしきり腹筋を使って笑ったロイは口元を覆って顔を上げた。
「いや、すまない。私はてっきり――」
『――そもそも貴方宛にこんな手紙を書かなければいけないこと自体、もう気に食わないんですが(あんまり書いたら僕が性格悪いみたいだから止めておきますけど)、もしこれがうまくいかなかったら、兄さんを宜しくお願いします。
失敗するかもなんて万が一にも考えたくないんですが、それ以上に僕に何かあったときに兄さんが心配なので。
兄さんのことだから、僕が居なかったらまともに体調管理も出来ないしご飯食べないし、ほんとにヲタクだから心配なんです。一般人の生活が出来るのかなって。
兄さん、普段がさつで小生意気ですけど、放っておくと1人で悩んだりとか割と内向的な所があるんで、そこら辺とか気に掛けてあげて下さい。(大佐にも憎まれ口叩いたりしてますけど、結構言い過ぎたって後で悩んだりとか反省したりとか、失敗したこと気に病んだりとかしてるんですよ)
というかほんとにこんな事、大佐に言いたくないんですけど。ここまできて気弱な自分も嫌になります。
では、後日。兄さんと大佐の関係については戻ってきてからゆっくり話を聞かせて貰いますので。成功して(生身で)再会できる事を信じています。
アルフォンス・エルリック』