八
attention:ロイマスタングにかっこよさを求める人は閲覧をご遠慮下さい。かっこいいロイはここにはいません。
ひたすら気持ち悪さを追及したロイしかいません。ご注意下さい。
ベッドで静養しながら、俺は部屋から一歩も出なかった。テレビも何も見ないで、一歩も自分の部屋から出ないで、一日中本を読んですごした。
時々、病院から同僚が見舞いに来てくれて、カルテを見せておれの指示を仰いだりもした。俺がいない間に亡くなった人もいたりして俺は医者失格だな、と自嘲した。途中で患者を、見放すようなとんでもない人間だ。
「最低。」
「兄さん……」
思わず呟いた言葉が隣にいたアルに聞こえたらしい。アルフォンスは、俺の食事を運んできてくれていた。
彼の食事もある。アルは、家にいる時はいつも俺の部屋で食事をとった。穏やかな日々だった。食事が、こんなに美味しいだなんて思ったことは今までなかったかもしれない。
あの男のことなど、全然気にしてなかった。ロイ・マスタング。黒髪の、陰湿な男。笑ったことのない男。汚らわしい。
全然、あの男のことなんか、全然興味ない。
「どうしたの?」
「なんでもねぇよ、アル。」
覗き込んでくる弟に俺は微笑んだ。その、栗色のやわらかい髪を撫でてやる。綺麗な目だと、思った。たとえときに俺を見る目が歪んでいたとしても、俺はアルフォンスは綺麗な子だと思った。
金がたまったら、俺は家を出ようと思っていた。アルフォンスも、一緒に連れて行くつもりだ。都会よりも田舎のほうが、こいつには絶対に合っている。どこかの離島で、小さい診療所でも持てればそれでいい。そういう穏やかな生活が欲しい。そのために、売ってきた体だ。
あの男に与えてきた、代償だ。金のために繋がっていた男のことなどもう興味はない。警察に捕まったと聞いたが、アルフォンスは彼のことについてそれ以上は何も教えてくれなかった。俺もしつこく聞こうとはしなかった。だって、あんな男にはもう興味がないんだから。
捕まったんなら、もう関わる事もないだろう。死に際が見れないのは残念だが、探し出して見るほどの価値もない。
食事を終えて、アルは食器を片付けていた。俺はベッドに座って、その指先を見つめていた。
「ところで、アル。新聞は…?」
「あ、持ってくるね。」
食器を持って、アルフォンスが出て行く。俺は窓の外を見た。
新聞なんて、そんなものを読んでどうするんだろう。ベッドサイドに手を伸ばして、医学書を手にとった。昔よく読んだ本。
懐かしいな、と思った。あの頃の俺はどんなだったろう。どんなふうに生きていたんだろう。
アルフォンスが持ってきた新聞を受け取りながら、俺は短く礼をする。アルの瞳は優しく微笑んでいた。
俺の目は、どうだろう。新聞に目を落としながら、俺は考えた。俺の瞳は、表面だけでなく中身まで歪んでいるのだろうか。
新聞の文字を追いながら、俺は、俺は何かを必死になって探している自分を押さえ込んだ。興味なんてない。あんな男に興味なんてない。なのに俺は、新聞をこうして手にとって。
探している、何かを。あの男に繋がる何かを、探していた。
体力を回復させて、俺はひさしぶりに外の空気を吸った。
すぐに仕事に復帰したかったが、それは弟に止められた。もう元気なのに弟は心配性だと思う。俺はサイフとケータイと、通帳を鞄に突っ込んだ。通帳はいつものクセ。別に深い意味はない。
俺は近所をぶらぶらと歩いた。昼間は気だるいほどに暑い季節。強い日差しに俺は目を細めた。車に乗ればよかったと思ったが、車に乗っても行くあてなんてなかった。そういえば最近運転した覚えがない。
運転するのは、いつもあの男だったから。あの男。俺は頭を振った。何も、思い出したくなんてないのに。
こんなこと、忘れたいのに。どうしてこんなに、あいつの顔が浮かぶのだろう。あいつの、運転している横顔。何も感じないような、遠くを一人で見ているような顔をしていたアイツを思い出すなんて馬鹿げている。
俺は、気付けば地下鉄に乗っていた。馬鹿らしい。胃液が喉の奥で波打っている。でも、足が自然とそこへ向いていく。
改札を降りて、駅前で銀行の窓口へ寄る。記帳する理由なんてない。なんとはなく、やってみただけ。
通帳を広げて、数字をなぞる。
金額が、増えていた。ロイ・マスタングの入金。
俺は何度もその日付を口の奥で呟いた。呟いて、呟いて、今日の日付を確認する。
その日付は、昨日だった。
ロイの豪邸は近代的な造りで、駐車場が二台分。車は、なかった。
コンクリートの高い塀を見上げる。黒い、門のそばのインターホンは鳴らさないで、俺はポケットから合鍵を出した。捨てようと何度も何度も握り締めた鍵をしばらく見つめた。俺は、何をするつもりなのか。何をしに来たのか。わからないままに、鍵を鍵穴に入れてまわした。
かちゃり、と音を立ててドアが開く。部屋の中は昼間なのに薄暗かった。靴がない。下駄箱もない。部屋に入って、俺は愕然とした。
高い天井から力なくぶら下がった空調用の扇風機が音も立てずに回っている。それ以外は何もない。あの時のソファも、テレビもテーブルも、窓にかかっていたカーテンも冷蔵庫も何もない。何もなくて、見慣れていた広さなはずなのにそこは俺の知っている場所ではなかった。外では蝉時雨が五月蝿いって言うのに、ここには何もないなんて。音もない。暑さすら感じないのは、空調のせいなのか、それとも別の理由なのか。俺は階段を登った。ロイの寝室に入る。誰もいなかった。ただそこには、ベッドと本棚。でも、そこにだけ存在する、詰め込まれたような生活感。ゴミ箱に、珍しいものを見つけて俺は手に手に取った。
「カップ麺……?」
俺は嘆息した。ロイ・マスタングとカップ麺?似合わねぇ、と吹き出しそうになる。
その時、俺は背後に人間の気配を感じて、振り返った。床を踏みしめる音がする。歩き方で、あの男だとわかった。ドアが開く。
俺は、ロイの黒い瞳と目が合った。黒い、くすんだ両の目が俺を捕らえる。
「鋼の…来ていたのか。」
「あ………あぁ…」
これがあのロイ・マスタングかと俺は目を見張った。相変わらず服装は気取っているし、煙ったいほどの香水の臭いもする。なのに、なんだかこれでは。
俺は違いを探した。ロイの、何が以前と違うのか。考えているうちに、ロイは部屋へ入ってきた。俺の隣をすり抜けて、ベッドの上にのせたのはコンビニの袋。そこから覗く割り箸。
なんだこいつは。
「驚いたろう?何もないから。」
「そ、う……だな…」
俺は言葉をうまく紡ぎ出せずにいた。ロイじゃない。ロイの声じゃなかった。こんな、泣き声みたいなかすれた声、この男から出る音じゃない。気持ちが悪かった。以前感じたものとは違う、別の気持ち悪さだ。こんな、曖昧な気持ちは初めてだった。もどかしさに、俺はどこに焦点を合わせればいいのかすらわからない。
「どうした?」
「………あんた、捕まったんだって?」
「無事釈放されたけどね。」
「冤罪?」
「まぁ………そういうことになるか。」
「金、入ってた。」
「うん、私が入金したんだ。」
「知ってる。」
「少し多めにいれたんだがね。」
「ほんとに少しだけな。」
「あれで、最後になるから。」
「あぁそう。」
ロイはベッドに座った。俺は、ロイのうな垂れる頭を見つめた。黒い髪の旋毛。初めてみるかもしれない。この男が、こんなにも衰弱した姿なんて見たくもなかったのに俺は目を離せなかった。何故だか酷く苛々する。怒りがこみ上げてくる。これは、この男に対する積年の恨みつらみ?わからない。俺がこの男に抱いていたのは、憎悪とか嫌悪とか、そういう感情の全てだったはずなのに。そういうものとは何か違うもどかしさが俺の身体を熱くしていた。指先がむくれたみたいにぱんぱん張っている。なんだこれ。なんの症状だこれは。
ロイの声が鼓膜に響くと、耳の裏がかゆくなる。これはロイの口調とはかけ離れている。もっと、もっと胸焼けのする声だったはずだ。胃に粘膜を貼るようなものだったはずだ。なのに、どうしてこんなに、寂しそうなんだろう。
どうしてこんなに、人間らしい声を出すのだろう。
「これからどうなるの?ロイ、さん……」
「もう金すら払えない男にさんづけ?」
「クソ男。」
「それでいいよ。」
言って、唇を歪ませる。自嘲っていう笑い方が出来るなんて初めて知った。黒い睫毛に覆われた同じ色の瞳が、揺れている。
頼りなく、どうしようもなく哀しそうに。
こんなの、ロイじゃない。
俺が殺したい男じゃない。罵倒することすら値しない。こんな、偽者。
「これからどうすんの?」
俺は同じ質問を繰り返した。ロイが俺を見上げる。犬みたい。見下してばかりだったであろう男の、見上げる瞳の不器用なこと。
「どうしようか……海外にでも逃げようかな。」
「そんな金が?」
「まぁなんとかなるだろう。それくらいの金なら…」
「金、払ってやろうか?」
俺は呟いた。
「俺があんたを買ってやろうか?」
ロイを見返した。驚いた顔をしている。人間らしい顔をするなんて、許さない。俺は唇を歪ませた。
「俺がお前を、金で買ってやるよ。」
「……鋼の…」
「ないんだろ?金が。要るんだろ?」
「………私にどうしろと…?」
ロイの弱々しい声。俺は睨みつけた。背筋が冷たくなる。ぞくぞく、する。快感じゃない。これは、異物感。沸騰しそうなのに、俺の声は俺自身の肝を冷やした。
「俺の犬になれ、変質者。金ならいくらでも、くれてやる。」
俺は、足を投げ出した。戸惑うロイに、笑ってやる。我ながら、趣味が悪いと思う。なんでこんなことしているんだろうと、自身で気分が悪くなる。
「跪いて、舐めろ。」
ロイ・マスタングだったものが、眉をひそめた。俺の顔と、俺の足を交互に見やる。俺は、足を揺すってロイを促した。はやくしろよ、と言う。ロイは、ベッドからのろのろと崩れ落ちた。まさか本当に、するなんて、この男。
ロイは俺の視線から逃げるようにしながら、俺の靴下を脱がせた。夏なのに、そこは日焼けしていなくてやけに白かった。その指先に舌を伸ばす男。多分、今までではじめての転落を味わったであろう男。俺の指先を舌でからめとって、丁寧に舐めているロイは、ちらっと俺を盗み見た。
黒い瞳が、俺を捕らえる。背筋に走る痛み。鳥肌がたった。ロイは、指の一本の一本を丁寧に舐めて、舌を足の甲に移す。触られた瞬間は生ぬるくて、しばらくするとひんやりと冷える足先。ロイの、すがるような瞳。俺は、突然恐くなった。
ロイの顔面を、蹴飛ばす。
「っ……」
ベッドの端に頭をぶつけたロイが、呻く。
馬鹿みたい。俺は呟いた。馬鹿みたい。あんた馬鹿みたいだよ。屑。
「屑。」
ロイは、反論しない。ただ、笑うだけ。力なく、瞳を細めて笑うだけ。苛々する、もどかしさが広がっていく。俺は拳を握り締めた。
「殴ってやろうか。」
「殴りたいならどうぞ。」
「殺したい。」
「なら、やればいい。」
俺はロイの胸倉を掴んだ。黒い瞳は、ひどく傷ついたような顔をして俺を見ていた。気味が悪い。俺は遠慮しないでその顔面を殴りつけた。
ベッドに倒れこむロイ。俺は床に崩れ落ちたロイの身体に跨った。彼の唇の端っこから血が流れている。
「あんたなんか……!」
嫌いだ。ムカつく。殺してやりたい。そう思っていた、あの頃のロイはどこへ行った?
この黒い瞳は、あのロイのものではない。あのロイはどこへ行った?
俺は、ロイの胸倉をもう一度掴んだ。怒鳴ってやろうと息を吸い込んだ。なのに、俺は出来なかった。飲み込んだ二酸化炭素が、上手く気道に入らなかった。
どうしてこんなにもどかしいんだろう。会うこともなくて済むなら、もう二度と会いたくなどなかったはずなのに、どうして。
「鋼の…?」
「っ……」
どうして俺は泣いてしまったんだろう。
どうして俺はキスをしてしまったんだろう。