目を閉じれば、脳にひろがる見知らぬ世界があった。青い空、緑の草原の丘、ヒツジの群れが土の道を横切るのを急ぐでもなくぼんやり眺めている。ここは、僕の知らない世界だ。丘の向こうに見える綺麗な家、白い柵に囲まれた花壇。栗毛色の女の人が、庭先で洗濯物を籠に取り込んでいる。太陽の光を浴びて、彼女はこちらに気づかない。僕は前を走る少年の姿を見た。金色の短い髪を揺らして無邪気な声が聞こえる。彼は女性を母さんと呼んだ。そして僕は。
ルーマニアで出会って仲良くなったエドワードエルリックという少年は一見すると僕らドイツ人と変わらない、金色の髪に白い肌、瞳だけはとても珍しい色をしているけれどそれだけ。背が小さいことはとても気にしているらしいから言わないけれど、やっぱりその背中はあまり大きくないなと思う。話す言葉はなまりのある英語。けれど覚えの早い彼はドイツ語もすぐに話すようになった。
僕の部屋で一緒に暮らすようになって半年。彼は時々、面白い話をしてくれる。彼の出身地の話だ。そこでは、蒸気機関以上に錬金術が発達していて、錬金術師というものが国の認める職業として存在するという。
僕はその話を聞くのが好きではない。最初は、新鮮な笑い話のような感覚で聞いていたのだけれど、それが段々現実味を帯びてくると、もう耐えられなくなった。だから僕は、真剣な顔をして話すエドワードさんの話を喜劇だと思い込むようにして笑い飛ばした。不愉快そうな顔を話し手はするけれど僕は、そうすることでしかその話を聞いてあげられなかった。恐かった。エドワードさんの話なんて信じられないよ、そう言いながら僕は、ものすごく恐かった。
エドワードさんがロケットの研究をする理由を、僕は聞いた。川の土手に二人で座って、部屋からもってきた温かい紅茶をそれぞれ手にしながら。その日は星の綺麗な夜で、ときどき車の通過する音が背中でする。川の流れは穏やかなのに、その水面は暗くて僕は、その川がなんだか一つの生き物のようだと思った。紅茶を、すする。エドワードさんはマグカップを握り締めたまま、空を見上げていた。橙色の街頭が、彼の頬を頼りなく照らし出す。
彼は、自分の住んでいた世界に帰りたかったんだという。ロケット工学を応用して彼の住む世界へ、そう信じていたという。
僕は彼を真似て空を見上げた。星は、昔から大好きだった。あの輝く星まで行けるとしたら、そこから僕たちの世界を見ることが出来たら。今でも夢に見る、ロケットをあの星まで飛ばしたい。
視界の端に座りなおすエドワードさんが映って、僕は視線をそちらへ向けた。彼の横顔、水面を見つめる静かな表情。
エドワードさんは、この世界のどこにもいなかった。僕と話をしながら、心は別の場所を追いかけてばかり。今、手を伸ばせば届くその髪に触れたところでなんら変化はないだろう。彼はこの世界に住む気なんてないんだ。この世界の星も、川も、風も、彼の瞳には映らない。彼の心の中に、僕の居場所なんてないんだ。
彼の心には僕の知らないいろいろなものが、巣食っているんだと思った。
帰ろうか、という彼の言葉に頷いて僕たちは岐路に着く。おやすみなさい、また明日。そう言って、自室に帰る。疲れた身体はすぐにベッドを欲して、流れ込むように身体を倒すと心は漆黒に沈む。瞳を閉じれば、気持ちいい睡魔に抱かれる。そして僕はまた、あの夢の世界へ入り込む。
兄さん!
そう呼ぶこの声は、僕の声だろうか。霧のかかった夢の中では自分の姿すら覚束ない。それなのに、その甲高い声だけははっきりと聞こえてくる。兄さん、兄さん。愛おしい人のように繰り返すその言葉。僕には、兄弟なんていないのに。
その声にこたえてくれたのは、金色の髪と白い肌をした少年。背が、今よりも低くて髪型も服装も違って、でも、その幻想的な瞳の色だけは今も昔も変わっていなくて。
アル。
彼の唇が、僕をそう呼ぶ。アル、アルフォンス、アル、アル。笑みが零れる。
青い空、緑の草原の丘、同じデザインの青い服を着た大人たち、晴れ渡った青空のような色。こんな色の服診たことがない。そして、日常に溶け込んでいる錬金術。錬金術?そんなもの、使ったことなんてないのに。
これは僕の夢じゃない。僕は怯えた。
エドワードさんは、向こうの世界では国家錬金術師という存在だったらしい。それは、軍に所属する職業で、多大な研究援助を受けられる代価として、戦争などの緊急時には最前線に借り出されるそうだ。朝の食卓で、彼は軍の話をしてくれた。同じ国家錬金術師である軍人が自分の後見人になってくれた話、その人物と演習試合をした時の話、僕は笑顔で聞きながら、そういえばと口を挟んだ。
「そういえば、軍人なんだったら制服とかはあるの?ドイツとは、やっぱり全然違うのかな?」
「制服はあったなぁ、ドイツのデザインとは全然違うけど。まず色が違う。なんで?」
「ううん、なんとなく……何色なの?青、とか?」
ソーセージをほお張りながら、エドワードは目を丸くした。
「何、今の勘で言ったの?」
「もしかして当たっちゃった?」
エドワードは笑って頷いた。
「それはもう青かったよ、遠目からもわかるような、雨の日に見たら腹が立ちそうなほど鮮やかな青空の色だった。」
僕は、夜眠ることが恐くなった。ほぼ毎晩見るものは、僕の知らない世界。エドワードさんを兄と呼ぶ世界。違和感を感じても、僕は何もできないどころかなぜかとても馴染んでいて。懐かしくもない故郷の風景、違うこれは故郷なんかじゃないのに、どうしてそんな言葉が浮ぶんだろう。どうしてあなたを、僕は兄と呼んでいるんだろう。どうして?
夕日の沈む時刻、僕とエドワードさんは食料の買出しの帰り道だった。紙の袋をかかえて、エドワードさんは上機嫌で歩く速度がいつもより少し速い。僕は後ろを歩きながら、左右に揺れる髪を見ていた。夢に見た、赤いコートの背中がダブる。その背中に乗っていたのは、たしか三つ編みだったはず。
僕ではない誰かが小さい声で、彼を呼んだ。砂利道の音に掻き消えてしまえばいいと思った。けれど、その声は、前を歩く人の脚を止めた。
彼は、ゆっくりと振り返った。金色の瞳の中で黒い瞳孔が揺れている。
「今、なんて?」
「なにがですか。」
「今、何か言わなかったか?」
「……いいえ?」
僕は微笑んだ。気のせいじゃないですか。エドワードさんの瞳孔が揺れている。取り落としそうになっていた紙袋を、もう一度抱えなおして唇を歪ませる。ああ、そうか。ならいいんだ、アルフォンス。彼の声はどこか空回りしていた。
僕ではない、誰かの言葉。僕にも聞こえた。僕の身体を使って、僕の唇から零れた言葉。
『兄さん。』
彼は、僕の兄なんかじゃないのに。
最後に見たのは、エドワードさんの姿。輝く門に飛び立つ姿。あれは、僕の作ったロケットだ。
僕はずっと知らないフリをしていた。エドワードさんの住んでいた世界。
ほんとは少し知ってたんだ。青い空、緑の草原の丘、青い軍服、錬金術、等価交換の原則。僕はそこでは、エドワードさんの弟で、エドワードさんは僕のお兄さんだった。
もし、そんな世界が本当にあるのなら。ずっと、エドワードさんと一緒にいられるのなら。
それならば僕は。
忘れないで、そう言って手を握ると彼は僕の名前を呼んでくれた。
何も映っていなかった瞳に、初めて僕の顔が映っていた。