グレイシアは、エドワードの後ろに隠れるように立っていた少年にをみて驚いてそれから、まずは服を着替えましょうかと言った。グレイシアはとても疲れた顔に笑顔を浮かべていて、ベルリンの街は騒然としていた。
「そう、アルフォンスくんが」
と言ったまま、グレイシアは沈黙した。エドワードは顔を上げられなくて、机の下でアルフォンスの手を握った。弟は、突然出た自分の名前とそれから兄の仕草に反応して二回瞬きをして、机の下、震える兄の手を握り返した。
「どう、しましょうか」
少し目頭を押さえながら、グレイシアが切り出した言葉の意味を、エドワードはすぐに理解できなくて思わず弟の手を離していたのにも気付かなかった。振り払われた形になった手を、アルフォンスは静かに膝の上に戻した。アルフォンスくんのサイズに合う服が無くて、とグレイシアが出してきたセーターは、13歳の彼には少し大きかった。セーターの袖からちょこんと顔を出す指を見ながらアルフォンスは、2人の会話から少しでも知っている単語を聞き取ることに集中した。でもかろうじて分かるのは人の名前くらいで、そのたまに分かる単語も、自分の名前であって自分ではない人を指しているのは分かった。血まみれの青年が、女性に抱かれていた。あの時あの場所で、兄が縋り付いていた金髪の青年の事は考えないようにした。
「どう、って」
「おそうしき」
エドワードの左手が、机の下で何か掴みあぐねて揺れた。アルフォンスは咄嗟に腕を袖から出して、その手を握った。エドワードがほっと息を吐く。兄さん、と呼び掛ける言葉を飲み込んだ。もしここで自分が話の腰を折ってしまったら、兄はきっと次に話を切り出すのにもっと苦労するだろうと思った。
「そうしき、アルフォンスの」
「ええ。アルフォンスくんのご両親、ルーマニアでしょう?」
「ルーマニア」
エドワードが出来たのは、単語をオウム返しに返すことだけだった。どうしてこの目の前の女性は、こんなに簡単に話を次に進めて居るんだろう、とエドワードは疑問に思いながら手の中の温もりを握りしめた。まだ今はアルフォンスの死を悲しむ時間な筈なのに。
「この前のデモのせいで街もまだどたばたしてるし、急かす気はないけど、一応こういう事は早めに考えないと…」
グレイシアが言葉を選んでいるのは、アルフォンスにも分かった。エドワードが俯いてしまって会話が止まって、エリシアちゃんはいないのかな、とアルフォンスは板張りの床の木目に目をやった。
かつての研究仲間は、みな優しかった。アルフォンスの葬儀を伝えるために掛けた電話口から聞こえる声は、友人の訃報に銷沈しながらもエドワードを心配して気遣っていて、口々に無理をするなと言った。泣いてるんじゃないか、と言われて、泣いてねーよとエドワードはいつもの喧嘩腰で言い返した。なんだよ心配してやってんじゃんと言われて、電話の向こうに届くように、大袈裟に息を吐いて笑った。
『アルフォンスはそうか…駄目だったか…』
「ああ」
仲間達は、エドワードよりも寧ろあの時現場を離れざるを得なかった自分達を責めていた。あのままいたらおまえら逮捕されてたぞと茶化すと、そうか、と笑った。エドワードは泣きたくなった。自分が気が遣えないばっかりに、相手にばかり気を遣わせている。
『アルフォンスは抗争に巻き込まれて流れ弾で死んだんだ、エド』
電話を切る間際に言われて、エドワードの受話器を耳から離そうとしていた手が止まった。
指先が酷く冷えた。熱を持っていた目元が、ドイツの冬の寒さを思い出していた。
『おまえのせいじゃないよ』
アルフォンスは、電話の横のテーブルで、兄のお下がりの簡易な語学書を睨んでいたが、それまで快調に(虚勢を張って)飛ばしていたエドワードの空気の変化を察して、顔を上げた。
「にいさん?」
『エド』
電話の中と外同時に呼ばれて、エドワードは我に返った。懸念の色を増した相手の声に慌てて、挨拶もそこそこに受話器を下ろす。
「にいさん、大じょ」
「アル、駄目だろ家の中では出来るだけドイツ語をつかえって」
「……兄さんって昔から、泣きながら偉そうな事言うの得意だよね」
「おまえこそ弟の癖に偉そうじゃん」
「ぼろぼろ泣きながら説教されたって全然堪えないけど」
兄の右手を取って引き寄せて抱きしめる。5つ離れてしまった年齢の差と、なまじっか前まで鎧の自分が大きかったもんだから、余計にエドワードの身体はアルフォンスの中の記憶より大きく感じられた。
「…アルフォンスが死んでどうしようもなく悲しいのに、そうしきなんてしたくないんだ」
「うん」
アルフォンスは、エドワードの手を握りながら、目一杯神妙な顔をして見せた。相槌を打つたびに、エドワードの手に力が籠もった。機械鎧の腕は、だらんと垂れたままだった。
「なんでそんなみんな普通の顔して次に進めるんだろうって……だって、グレイシアさんが最初に葬式って言ったときに、俺はなんて薄情なんだろうって思ったんだ。だってさ、まだアルフォンスが死んだって言うショックから、俺は、抜けれてないのに、もうみんなアルフォンスを葬式なんてして片づけようとしてるんだって思ったんだ……、なんでそんなこと出来るんだろうって。……でもアルフォンスが死んだのは俺のせいで」
「………うん」
「罪悪感がいっぱいあって積もって……辛くて、俺がそれでもう辛くて堪らないから、どうにかして軽くしようとしてるだけな、悲しんだら 許して貰えるかもなんて、俺が一番薄、情だって分かってるんだ。アル、も。電 話だってしたくないし、普通な声して喋ってる自分が、なんて酷い奴だろうって、でもみんな泣くな泣くなって、俺、あの日から全然 泣いてなかったのにな」
エドワードがとん、と背もたれに寄りかかって、あはは、と笑った。
「もういいよ兄さん」
アルフォンスはキスをして、エドワードの言葉を中断させた。言葉を遮られて、エドワードは呆然と、顔に掛かって離れていくアルフォンスの前髪を目で追っていた。
「兄さん、……壊れちゃうよ」
どんより曇って鉛色の空、暗くて寒い朝、アルフォンスは布団の中で息を潜める。
隣の部屋からはエドワードの声――電話の相手は、かつて世話になった教授らしい。人名と簡単な活用の動詞くらいなら聞き取れるようになってきた、大きな成果だ、とアルフォンスは自画自賛する。
あれから、エドワードは何回も何回も電話を掛けて、その都度電話の相手にアルフォンスの死を告げ続けた。きっと今の電話の相手が最後、葬儀までに連絡が取れないかもと危惧していた教授がやっとつかまりそうだとエドワードが昨日言っていたから、話題の中心はきっとあの自分と同じ顔を持つ人のこと。
朝の鳥の鳴き声が、膜を一枚隔てたまるで遠い世界のものみたいに聞こえる。運悪くシーツからはみ出てしまった右足が寒さに震えだして、アルフォンスはそっと寝返りを打つふりをして身体を丸めてシーツを巻き付けた。
エドワードはまだ電話で喋り続けている、自分の知らない世界、聞こえない相手の言葉、創造できない相手の顔、まるで一方通行な会話の格好を装っているだけじゃないかと、アルフォンスは訝しむ。
エドワードの声が、自分を前に取り乱したときとは怖いくらい別人に聞こえる。
寒気を感じて、アルフォンスはもう一度寝返りを打って、知らない人の匂いの残るシーツを身体に巻き付けた。