開かずの間 後編
強烈な印象を貼り付けられたまま、ロイエンタールは午後の授業を受けた。国語に英語。午後の授業はタダでさえ眠気に襲われるというのにそれにさらに拍車をかける言語系の授業に、しかしロイエンタールは眠気ではなく寒気を覚えていた。教師の内容など端から聞いていない。さきほど目に焼きついたラインハルトの、おぞましいほどに鮮明な唇の色をずっと忘れられないロイエンタールは、珍しくノートもとらずに、ただ教室に存在していた。
あの後、その悪魔のような笑顔に言葉を失ったロイエンタールはチャイムの音で現世に呼び戻された。
その時には既にラインハルトの顔にそのような表情は全くなくて、さっきまでの不機嫌そうな顔が戻っていたから彼は小さく安堵の息を零した。
「もうそんな時間か…戻ろうか、教室に。」
なんとか調子を戻して言えば、ラインハルトは二度大きく頷いて、隣に並んで階段を下りた。そうして二人して教室に戻ってきたものだから、クラス中は一瞬騒然となった。ロイエンタールが女子生徒に囲まれてラインハルトはすぐに外へ追い出されてしまって、なんだかんだと質問攻めに合っている。ラインハルトは、奇異の目を向けられていることすら気づいていないような足取りで、ロイエンタールに目もくれない。自分の、何もない机に向かって真っ直ぐ進んで、そのまますとんと着席した。その時、教室の扉が開いて教師の一喝のもと、一応クラスは静かになった。表面上では。
「何かあったのかしら。」
「ねぇ、一緒に戻ってくるなんて変よね。」
自分に対する発言というのはやけにはっきりと耳に届く。ラインハルトには聞こえているのだろうか、ロイエンタールは視線を彼の背中に送ったが、彼は机の上で平べったくなっていた。穏やかに上下する身体。気持ちよく眠っているに違いない。
それにしても、あの笑顔は何だったのだろう。今さらになって思えばおかしなことだらけではないか。
ラインハルトを追いかけて迷い込んだ、あの使っている様子のない空間。あの階段は、あの不気味に暗い廊下は、あの扉は一体…。
ロイエンタールははっとして自分の掌を返した。指先で、あの扉に触れたときの感触はどうだったか。
濡れていた。
あの開かずの扉は確かに濡れていたのだ。粘液のような、ゼリーのような、生々しい感触を頭には描けるのに、そういえばいつのまに乾いてしまったのだろう。濡れた指先がいつの間に。
それともあれは、俺自身の錯覚であったのか………。
気持ち悪い浮遊感に襲われて、ロイエンタールは拳を握った。
授業のあとの短いホームルームを終えて、ロイエンタールは群がる女子生徒の相手を適当にしながら、帰り支度をした。視線を、ラインハルトに送る。彼はほとんどの教科書やノートを机に突っ込んで鞄の中は空同然、軽々と肩に担いで顔をこちらへ向けた。アイスブルーの瞳が、ロイエンタールを真っ直ぐに見つめていた。
ロイエンタールは、鞄を持ち上げた。ラインハルトの脚は、しかし止まらないでまっすぐに教室を出て行く。周りに囲む女子生徒をこれほど鬱陶しいと思ったことが未だかつてあっただろうか。一喝してしまいたい衝動にかられて、しかしそれを寸でのところで堪える。
やっとの思いで教室を出た頃には、ラインハルトの姿はもう廊下のどこにもなかった。
翌日の昼休み。昨日と同様、ロイエンタールはラインハルトの後を追おうとしたが、女子生徒に阻まれて時間を食ってしまった。やっとの思いで廊下に逃げ出し、昨日と同じ、あの薄気味の悪い一角へ向かう。
階段を登り、薄暗い廊下を見回す。
開かずの間。
その開かずの間の鍵が、外れていた。
「………。」
扉の僅かな隙間から、眩しい光が零れている。ロイエンタールは、引き寄せられた。扉の近くに、壊れた砕けた南京錠。
ロイエンタールは目を細めた。眩しさに慣れた瞳孔が、中の映像を網膜で結ぶ。中では何かが蠢いていた。
黒い影は溶け合って、ひたひたと音をたてて不気味に動いている。真っ黒い物体は二つの塊だった。二つの個別の物体が重なり合って溶け合って、分離してまた溶け合う。人間なのかそうでないのかわからない。息遣いは一方からだけ聞こえてくる。荒い息遣い、合間に聞こえる声はかすれて濡れている。聞いていて居心地のいいものではなかった。何か胃にもたれるような、重く低い、苦しそうな声。生命力を段々に失っていく過程を体現したような声。その声が、言葉らしい言葉を発したとき、ロイエンタールは逃げるように後ろへ飛び下がった。
「ラインハルトッ…」
鼻につく強烈な雄の臭い。濡れた粘液の音、絡み合う黒い塊はぶよぶよと蠢いている。それはかつては人間であったのかもしれない。けれど、彼の目に映っているのはもう人間であることを捨てた生き物であった。肉の塊に呼吸器官と性器を吐けただけのおぞましい物体であった。その時、ロイエンタールは理解した。
この空間は開かずの間だ。この扉は開かずの扉なのだ。
教室に戻らないで、ロイエンタールは保健室に向かった。体調不良を訴えて、さっさと帰宅する。指先に、扉に触れた時の感触がやけにリアルに蘇ってくる。
粘液の音に耳をやられ、ゼリー状の何かに全身を包まれた彼は、その夜、なかなか眠りに落ちることが出来なかった。
翌日、数学の授業が教師の都合で自習になった。ロイエンタールは昨日見た黒い塊が彼だったんだなと思った。確証も、何もない。論理性のない答えが嫌いなはずなロイエンタールだが、なぜだかその解答に強い確信を抱いた。ロイエンタールは、今朝から平静を取り戻していた。あれだけ取り乱して、ベッドに潜り込んで、何度も何度も寝返りをうったのに、朝起きれば指先はいつも通り乾いていた。
自習時間中、生徒たちは教室を出ることはなかったが、席を移動して、各々友だちとしゃべっていた。ラインハルトは席からたたずに本を読んでいるようだった。ロイエンタールは席を立って、ラインハルトの前に立った。
「開かずの間が開いていたよ。」
「…そう。」
ラインハルトは本から視線をあげない。ロイエンタールは続けた。
「君の名前を、呼んでいたよ。」
「そう。」
「今日も開くと思うか?」
ラインハルトはこのとき初めて顔を上げた。白い肌に美しい宝石のような瞳を乗せて。
「知りたいのか?」
「知りたい。」
ロイエンタールは片手を机について身を乗り出した。手を伸ばして金髪に触れようとする。ラインハルトは避けなかった。指先が、その金髪に触れる。一房、指先に絡めてみる。するりと指の間から零れ落ちる金糸。
「知りたいならまた行けばいい。昼の長い休みに。」
「そうだな。君も一緒にどうだ?」
「………私は行きたくない。」
「そうか、それは残念。」
その日の昼休み。ラインハルトはずっと教室にいた。ロイエンタールは、着席したまま本を読むラインハルトの正面に座っていた。
「行かぬのか?」
ラインハルトが問うがロイエンタールはただ笑顔を返すだけだった。恥ずかしげもなくずっと見つめられるラインハルトは、本を読みながらちらりと視線を上げる。ロイエンタールと目が合えば不快そうに眉を寄せて、少しだけ頬を染めた。
ラインハルトは、遠くから見れば浮世離れしていたが近付けば違った。ちゃんと人間で、他人と比べれば少ない表情もふとした瞬間に鮮やかに出るし、すぐに頬を染める。ロイエンタールは、面白がった。時間があればラインハルトにちょっかいを出した。休み時間、昼休み、体育の授業でも。
ロイエンタールは、何度となくその金髪に触れた。指の腹に乗せて、太陽に透かせばきらきらと眩しいほどに光るその色が、ロイエンタールは好きだった。
そのうちに二人は付き合っているという噂まで流れ出す始末。ロイエンタールはその噂に不快感を全く抱かなかったから、そのまま放っておいた。ラインハルトは、そういうものとは相変わらず無縁そうな顔をして本を読んでいた。
そういう日が続いたある日の昼休み。ラインハルトは、席をたって、珍しくロイエンタールのほうへ近寄った。ロイエンタールは嬉しそうに微笑む。
「どうしたの?珍しいじゃないか。」
「一緒に、あそこに行かぬか?」
開かずの間。ロイエンタールは頷いた。
「今日は開いている日なの?」
「さぁ?」
ラインハルトはその一言だけ言って、あとは何も言わなかった。ロイエンタールは、前を歩き出す少年の金色の髪を一房、掌に乗せた。歩いていたからそれはすぐに指の間を落ちていってしまったがロイエンタールは髪を乗せた指の腹に違和感を覚えた。
濡れている。髪に触れた指先が、べっとりと濡れている。
ロイエンタールは前に視線を送った。ラインハルトが肩越しにこっちを見ている。立ち止まった自分に気づいて、相手も立ち止まっている。
「来ないの?」
職員室の前なのに。人はたくさんいるはずなのに。ロイエンタールの耳には、ラインハルトの声しか聞こえないのに。何の違和感をも、彼は抱かなかった。抱けなかった。ロイエンタールは微笑んだ。行くよ。そう答えるとラインハルトも微笑んだ。唇を、血のように真っ赤にして。
薄暗い階段を登って、廊下へ出た。相変わらずそこは不気味でかび臭い。
開かずの間は堅く閉ざされていた。
「閉じているね。」
「開かずの間だからな。」
ロイエンタールの言葉に真面目に答えるラインハルト。彼は普段しているように、暗闇に光る金髪を優しく撫でた。ラインハルトは抵抗しない。そっと抱き寄せても、何も言わなかった。ただじっと、身を堅くしているだけ。
「ラインハルト…」
名前を呼びかけながら、その美しい髪に唇を落とす。そして、細い顎を持ち上げて、唇を覆った。角度を変えて、何度も口付け、その軟らかい感触を楽しむ。顔を離してみてみれば、初々しい表情、桃色の頬はどこまでも透明で瞳は潤んで頼りなかった。
ロイエンタールは、だからすっかり忘れていた。
背後には開かずの間があったのに。
夢中になってもう一度、ラインハルトの唇を吸う。少しだけ開かれた隙間から舌をいれて唾液を流して。抱きしめていた手で、ラインハルトの体を優しく撫で回して。
ラインハルトの息遣いが耳に心地よく流れてくる。それ以外の音は、聞こえなかった。ロイエンタールは夢中だった。夢中でラインハルトを抱いた。
彼は思い上がっていた。自分が、彼を落としたのだと思っていた。
もう背後にある開かずの間のことなど、すっかり忘れてしまっていた。耳を埋め尽くすラインハルトの声と、響く体液の音。視界に入るのは、自分の身体の下でなまめかしく動く美しい肌。
あとはもう、何もない。だから彼は気がつかない。
そこはもう、薄暗い廊下ではなかったのに。
組み敷いていたラインハルトの唇が動いた。真っ赤な唇。ロイエンタールはそれにすら気づかなかった。自分の発した言葉すら聞こえないのに。ロイエンタールは、ただ目の前にいる少年を愛撫し続けた。
開かずの間は開かれていた。眩しいほどの光でそこは開き、再び閉じた。
チャイムが鳴る頃には、薄暗い廊下にはただ一人、浮世離れした金の髪と、鮮血のように赤い唇を歪ませた少年がいるだけ。
扉が閉まる。南京錠がかかる。少年は唇で笑っている。音もなく静かに笑っている。
「ごちそうさま。」
神のように美しい少年は、蛇のように長い舌で、血のように赤い唇をぺろりと舐めた。
思い上がった蝶が、一匹消えた瞬間。
女郎蜘蛛:ラインハルト編。