開かずの間 前編
ロイエンタールがその高校へ転校してきたとき、季節は秋から冬へと急速に動いていた。
担任教師からのありきたりの挨拶の後、真新しい制服に身を包んだ長身の男は簡素な挨拶を述べてそのクラスの一員となった。
整った顔立ちに世にも珍しいヘテロクロミアの瞳、気品に満ちた言動と行動は見る人の目を集め、性別を問わずに最初は何かともてはやされたがそれは初日で終った。あまりの無愛想ぶりに、二日目以降、男子生徒からはすっかり見放されてしまったが、変わりに女子生徒が群がったため、彼の男子生徒間での人気はさらに最低レベルにまで落ち込んだ。
ロイエンタールは、クラスの女子に取り囲まれながら一人の生徒に視線を送った。それは彼がこの学校へ編入してきた三日目の二限目と三限目の間の休み時間。
世話好きな女子たちが次は教室移動だと彼女たちなりに親切を振りまいてくるのを笑顔でかわしながら立ち上がったロイエンタールは、教室の最前列、一番窓際の席で科学の本をカバンからひっぱりだしている男子生徒を見た。
金色の髪は豊かに波打って背中に流されている。紺色のブレザーから、グレーを基調にしたチェックのズボンがすらりと伸びて安物のスリッパへ続いている。
「ああ、彼ね、彼も転校生なのよ。貴方と一週間違いで編入してきたの。」
転校初日、ロイエンタールが休み時間に今日と同様、その生徒を見ていると、親切な女子生徒がそう話した。
「すごく綺麗な人なんだけど全然しゃべらないの。」
「そうそう、なんだかいっつも遠くばっか見てて。」
「かと思えばほら!数学の先生にいきなり食って掛かっちゃって!」
「ちょっと、変わった人なのよね。」
背の高い、しっかりした声音の生徒が最後にそういって、周りの女子が全員頷いてその話題は終った。
ラインハルト・フォン・ミューゼルは、確かのそのクラスで浮いていた。彼が、誰かと話しているのをこの三日間、ロイエンタールは見なかった。朝遅刻ぎりぎりの時刻に来、大人しく授業を受け、休み時間になると教室をさっさと出て行く。誰も行方を知らないそうだ。
三日前の昼休み、沢山の人だかりに囲まれて食堂へ移動するロイエンタールの隣を通り抜ける時に一瞬だけ、ラインハルトと視線が合った。薄い氷の色をした美しい両眼は研ぎ澄まされた氷柱のように鋭く、唇は薄かった。透き通るような白い肌が印象的で、ロイエンタールはこの時初めて同性に見蕩れた。けれどそれは一瞬間の出来事で、ラインハルトは何も言わずにさっさと教室を出て行ってしまった。それ以来、目すらあわせたことはない。
ロイエンタールは、教科書とノートを抱えたラインハルトに声をかけようか、とも思ったがやめた。足早に教室を出て行く金色の髪を見ながら、ロイエンタールは女子生徒の歓談に囲まれて教室を後にした。
科学室へ行くと、先に教室を出たはずのラインハルトはいなかった。どうしたんだろう、と簡単な実験を行いながらロイエンタールは思った。結局その授業にラインハルトは出てこなかったが、次の授業の時にはちゃんと教室にいたからロイエンタールはさして気にもとめなかった。
それから、というのは、ロイエンタールがラインハルトと目を合わせて以来、彼は授業中何度かその金髪を視界に納めた。金色の豪奢な髪は黒板を見上げるたびに揺れた。休み時間に教室を出て行くとき、昼休みに出て行くとき、ロイエンタールはその横顔を見ていたが、絶対に声をかけようとはしなかった。
そうして一週間がたった。
ロイエンタールはすっかり新しい高校の生活に成れ、女性のもてはやし方も多少は落ち着いたように見えた。相変わらず、ラインハルトは一人クラスから浮いたまま、授業中以外は忽然と姿を消した。ロイエンタールは自分から何かするということを好まないから、いくらその少年を気にしたところで席をたって追いかけることも、話しかけに行くことも発想としてすら浮ばない。
それは、数学の時間だった。教師の話を方耳に聞きながらノートをとり、黒板を見るついでに金髪の背中を見る。授業態度だけは真面目な色白の項を見て、ああ今日は髪を結っているんだな、ロイエンタールが頬杖をついて窓から差し込む光に照らされる金糸を目を細めて見つめた。その時、教師の声が自分を呼んでいることに気づいた。遅かったか、と思ったが今呼ばれたところだったらしくロイエンタールは冷静になって状況を考えた。
黒板に出て、問題を解けということだろう。教師が教室の端に移動するのを見ながらロイエンタールは結論付け、ノートも持たずに机の間をすり抜ける。一瞬眉をしかめたのは、チョークを直に掴むのを躊躇ったため。しかし文句も言えないので仕方なく白い塊を指先でつまみ上げ、問題を改めて見る。そうか宿題の答え合わせかと今さら気づいた彼は昨日解いた自分の解答を思い出しながら美しい文字を並べていく。後ろで感嘆の息が漏れるが、それが達筆な文字に対してなのか、それとも難解な問題をノートもなしに解く姿に対してなのか、ロイエンタールにはわかりかねたし、理解も出来なかった。一度解いた問題の解答くらいすぐに書けんでどうする、と軽い苛立ちすら覚えながら最後の結論文を書く。チョークを置いて、両手をはたいて粉を振り落としながらちらりと視線を前に向ければ、ラインハルトがじっと、そのアイスブルーの瞳を彼に向けていた。細い眉を吊り上げた顔は怒っているようにも見える。肩肘をついている姿勢から少しだけ顔を浮かせた彼の、柔らかそうな白い頬には彼自身の掌のあとが赤くくっきり残っていて、さっきまで半分眠りながら授業を受けていたのだろう、そう思ってロイエンタールは苦笑した。その苦笑をラインハルトはどう受け取ったのか、慌てて視線をノートに写す姿が、浮世離れしていた今までとはまるで違って、ロイエンタールは何故だか強烈に、ラインハルトを可愛いと思った。
それからその授業も、次の授業でも、ラインハルトは何度か頭をめぐらせてはロイエンタールと目が合って慌てて視線を落とす、という行動を昼休みまで繰り返した。高く纏められた髪、遅れ髪を指先で弄びながらその耳が少しだけ赤い。ロイエンタールは玩具みたいな耳だと思いながらずっとそちらばかり見つめていた。
その日の昼休み、チャイムがなったとたんにラインハルトは機械のように立ち上がる。既に綺麗に何もない机の上、チャイムの鳴る五分前からその状態だったそこを後にしてラインハルトは教室を出た。ロイエンタールは、女子生徒が集まってくる前に、彼が出たドアとは別の、後ろのドアから廊下へ出る。
誰も、休み時間中の彼の行方を知らないという。彼の後姿は廊下の突き当たりを右へ曲がった。ロイエンタールは気分がよかった。昼休みにラインハルトを追いかけてみようと思い立つくらいに気分が良かったから、そのまま早足で廊下を進んだ。走るなんて概念は、彼の頭にはない。
曲がった廊下の先に揺れる金色を見つける。ラインハルトはロイエンタールには気づかない様子で、かなりの速さで廊下を進む。そこは少し広い廊下で、左手には職員室。昼休みでたくさんの生徒たちが廊下を歩いている。ここはマンモス校とも呼ばれる有名私立高校、昼休みともなればにぎやかしくなるのは仕方のないことで、ラインハルトの一つに結われた金色の髪が人々の頭の波間にちらりちらりと見え隠れして、最後には消えてしまった。同じように職員室を進みながら追いかけていたロイエンタール、廊下の突き当たりで左右を見回した。右にも左にも一年の教室があるだけ。ぱっと見たところそこに金髪はいない。ロイエンタールは左手にある階段を見た。そこは、なぜだかそこだけが真っ暗で、少し頭を伸ばして階段の踊り場に入れば、外の廊下とは空気の温度すら違う気がした。壁に阻まれているから外の喧騒は別世界のもののように聞こえる。ロイエンタールは、階段を登る足音をその時確かに聞いた。上から、その音は彼の上からして、さらに上へと向かっていた。ロイエンタールは、その照明のついていない階段を、ためらいもなく登っていった。
一階分登って、さらに耳をすませれば同じように登る足音が上から聞こえる。さらに一階分、足音を追いかけながらとうとうロイエンタールは最上階まで来てしまった。
これ以上は登れないな、と屋上へ続くドアを見ながら嘆息する。そのドアには頑丈な鎖と南京錠がかかっていたからロイエンタールは辺りを見回して廊下へ出てみた。
無駄な行動というのが一番嫌いなのだ。ロイエンタールは煙草でも吸ってやりたい気分になりながら、なぜか薄暗い廊下の窓から外を見た。昼間なのに、どうしてここはこんなにも薄暗いのか。窓が汚れているのかな、と思ったが、後で考えればそんな程度の暗闇ではなかった。そこだけ、太陽から見放されているような薄暗さ。
廊下を照らす蛍光灯も全て消えてしまっている。今まで使っていた校舎とは比べ物にならないほど汚い。私立から、いきなり無名の公立高校へ瞬間移動してしまったかのような気になってロイエンタールは教室へ戻ろうかと思った。
それにしても、ラインハルトはどこへ消えてしまったのか。ロイエンタールがそう思っていると、
ガタン
廊下の端から音がして、ロイエンタールは素早く視線を走らせた。廊下の突き当たり、何かが蠢いた気がしたのだが、改めて見れば何もない。代わりにそこが、廊下の突き当たりではないということに彼は気づいてしまった。
屋上へ続くドアと同じような、壁と同じ淡いクリーム色をしたドアがそこにはあった。
真ん中に小さい南京錠。あとは何もない、ただただ薄汚い、愛想もなにもないドアであった。
「これは…」
何かに呼ばれるように、ロイエンタールは手を伸ばした。足は吸い付くように廊下を踏みしめ、音も響かない。ロイエンタールは、そのままそっと指先でドアに触れた。冷たい、金属質な扉。指先に触れればしかしそこはぬるりと滑っていた。粘液のような、何かが指先に絡みつく。全身に鳥肌を立てながらしかしロイエンタールはそこから動けなかった。足が、引き寄せられそうになる。
「そこへは行かない方がいい。」
耳に当たる、凛とした声に引き戻されて、ロイエンタールは手を引っ込めた。
振り返れば、いつのまにそこにいたのか、ロイエンタールのすぐ後ろにラインハルトが立っていた。金色のクセ毛はいつのまにか普段通りに下ろされ、波打って肩を包み込んでいる。長い睫毛に包まれた瞳には愛想というものが全くなかった。白い頬、首筋、そしてやけに目立つ真っ赤な唇。
「ここは…?」
「行かない方がいい。」
繰り返すラインハルトにロイエンタールは歩み寄った。相手に逃げる様子はない。なぜだか逃げられると思っていたロイエンタールはそれが意外で、少し調子にのって扉に伸ばした手をその金髪に伸ばした。
ラインハルトは眉を寄せてそれをかわす。
「なんだ?」
「綺麗な金髪だなと思って。」
「そんなことは言われずとも知っている。」
数多の女性を蕩けさせてきた笑顔を向けられてもラインハルトは動じなかった。動じるどころか一層眉間の皺を深くして自分より少しだけ長高いクラスメイトを睨んだ。
「それで、この先には何があるのだ?」
ロイエンタールはしかし気にする様子を見せないで、再度質問を繰り返した。ラインハルトは扉を睨んでから、小さな声で呟いた。
「あれは開かずの間だ。」
「開かずの間?」
「貴様、今馬鹿にしただろう?」
「そんなことはないよ。」
小さく吹き出したロイエンタールに素早く反応したラインハルトが半眼で睨むとロイエンタールはまた笑顔でさらりと返す。
「君はここで何を?」
ロイエンタールはラインハルトを見ていた。ラインハルトは扉を見つめたまま、しばらく黙っていた。言いたくないのかなと、彼が何か言葉を続けようか、黙って返事を待とうか考えている時、ラインハルトの唇が動いた。鮮やかな赤が、俯き気味の横顔でうごめいて、真っ白い歯と血のように鮮やかな舌が見えた。
「……さぁ?」
その唇は、うっすらと笑っていた。