名前


どれが傷口で、どれが汚れか。
全身血にまみれていると、そんなことすら解らなくなる。
この血はどこから流れて出してきたのか。団服もブーツも、それから髪の先にも、付着した血が固まって赤黒くかぴかぴして、それがどこかに擦れるたび赤い粉末がこぼれる。
服と髪と、それから石畳の床と。これだけを血に染めるのに、どれくらいの血液を自分は失ったのだろう。
いや、ファインダー達の血飛沫を浴びた覚えがあるから、服を汚す血液全てが自分の血ではない、と停止仕掛けた頭が生意気にも主張する。このくらいの出血なら、まだ動けると。考える、という脳の最後の砦。例えそれが些か正確さを欠いたものだとしても。……些か、とは過大評価のしすぎか。指一本、動けという司令も与えられないのに。

感じるという機能を司る脳の部位は、すでに黒く塗り潰された。
外界と遮断されたその状態では、まるで一人暗闇に置き去りにされたかのような錯覚を起こす。
――いや、生きている者が誰もいない空間、しかも救助も期待できない状況下、これを一人置き去りにされたと言わずなんと言うか。
視力を失った目が捉えることは決してないが、自分の周りに転がるかつて同僚だった人間たちの肉塊が、そろそろ腐敗臭を発する頃だろうか。
そう考えると感覚がないのはむしろ救いなのかも知れない。
その光景と肉の腐る臭いに発狂しかけたとしても、もげかけた両足ではここから離れることは叶わない。

外に向かうことが出来なくなった感覚は、ひたすら内に進んでいって、海馬を刺激し、記憶を揺り起こす。

白い髪…見えないはずの目が、暗闇の中で確かにそれを見た。
色素の抜け切った、老人のような髪の隙間、若い瞳と呪われた証が奇妙に同居している。
その瞳がこちらをじっと見つめていて。
自分がモヤシと呼ぶと、その瞳が少し歪んだ。
「モヤシじゃないです」
聴覚は失われたはずなのに、あいつの声はどうしてこんなにクリアに届くのだろう。
自分の手が、その髪の上に置かれる。髪を撫でる。
そこまで来て、これがいつかの記憶だと、やっと頭が理解した。そうだ、まさかあいつがここに居る訳がないのに。
現実と妄想、そんな簡単な区別も出来ない自分を嗤う。そろそろ本当にやばくなってきたのか。
その間にも記憶の中、自分の手は尚もあいつの髪を撫でていて。
それに応えて赤い瞳が、くすぐったそうに細められる。
「いい加減モヤシって呼ぶの止めてください」
文句を良いながらもその声は至極嬉しそうで、自分も少し嬉しくなった。
自分の顔は見えないが、確か柄にもなく微笑んでいたと思う。
「モヤシじゃないですよ」
笑っているだけで答えない自分に、あいつは大きな瞳を少しだけ吊り上がらせて、もう一度さっきより少しきつい口調で言う。

「   です」

鮮明だった記憶が一瞬ぶれた。
そう、ぶれたのはほんの一瞬で、次の瞬間にはまた明瞭なあいつの声が再度念を押してくる。
「わかってますか?」
少し呆れた声に、解ってるに決まってんだろ、と唇の端を上げた。
それを見て、あいつは不満げに眉を寄せる。
「じゃぁ、ちゃんと呼んでみてください」
――ああ、言わなくても解ってる、おまえの名前は――。

映像がさっきよりも大きくぶれて、ノイズが混じった。砂嵐が視界を覆っていくように、すべてが見えなくなっていく。
その白い髪も、赤い瞳も、几帳面に折り目正しく着込んだ白いシャツも。
名前―そう、モヤシの名前。言わなくても解ってる、忘れるわけがない。
名前……名前…。
そこだけまるで、厚い磨りガラスに遮られたかの様に見えない、思い出せない。
名前、あいつの。
モヤシの様に白くて細い、言う事為す事甘ちゃんで、しかもその上呪われた……任務の度に、死なないでと、泣きそうな顔で笑いながら見送る、あいつの――。
ふと横を見ると、さっき砂嵐に攫われていなくなったと思ったあいつが、俺の隣に立っていた。
記憶の中、一番優しい表情を浮かべて。


時間切れ、とあいつが笑った。