天才ジョッキー落馬!
(翌日の新聞を飾ったその見出しの裏にあった出来事)
出走直前だった。油断していた、と言えばそうかもしれない。実際考え事をして、手綱もろくに握っていなかったから。三半規管の歪み、やばいと手綱を求めて伸ばした手が空を切って浮遊感、視界に広がるネオンの人工光、全部が消えて気が付いたときには激痛、いつのまにか瞑った目をむりやり瞼を引きはがして開くと、どうやってこんな所まで来たのか、心配そうなロイの顔があった。
「ぁ………」
「喋らなくて良いから、じっとしていなさい」
珍しい、真面目な声。借金の取り立ての時でさえ、こんな声聞いた事なかったな、とエドワードは思う。一回だって、真面目に取り立てる気なんてなかったのだろうけど。担架が来るのが視界の端に見えて、周りに集まってきた大人の手が伸びてくる。身体が浮いて、担架の上の人になる。わらわらと集まって視界を覆う腕の隙間から、先程騎手を振り落としたとは思えない程落ち着いたオスカー号が見える。黒いチョコボは、係員に手綱を引かれるのをうるさそうに嘴で払った。
オスカー号は賢そうな目で、一瞬前に手綱をふりほどいて背に乗せる事を拒否した飼い主を見ていた。
「ロイ、あの」
「あのチョコボの事は大丈夫だから、早くいきなさい」
ロイが言う。心配そうにエドワードを見るロイの真っ黒い目が、落ちる瞬間に見たチョコボの黒い瞳と重なる。
勝ちたくないって言ったからだ。オスカー号は賢いから、悩んでたのも全部きっと筒抜けだったんだろう、レースを嫌がっていたのも全部…。勝ちたくないのに、他のチョコボには負けたくないという人間の勝手なプライドでレースに出していた。ごめんな、と口を動かそうとしたが、うまく言葉にならなかった。もう一度ごめんな、と言い直す。……担架に乗せられてエドワードが運ばれるのを見て、やっとオスカー号は係員に従って厩舎の方に首を巡らした。エドワードは安心して、瞳を閉じた。
「……ごめんな」
最後にもう一度呟いたのは、誰に向かって言ったつもりだったのか。
エドワードの呟きを聞きとがめたロイが、びっくりして目を見開いたけれど、エドワードはそれには気が付かなかった。
天才ジョッキー兄弟仲に亀裂か?
(翌々日のゴシップ紙の一面をかっさらった裏事情)
兄の落馬という衝撃的な場面を目の当たりにして、アルフォンスの心臓が悲鳴を上げた。
首筋に汗が伝って、鼓動が早く、視界が白っぽくなった。周囲の声が遠くなる中で(後で考えると、失神しかけていたのではないかと思う)、アルフォンスはとにかく待合室を飛び出した。
一目散に兄が運ばれた病院まで駆けつけたアルフォンスは、ベッドに横たわった兄の横に信じられない人物を見た。
あの、憎むべき金貸しの男!
ロイ・マスタングは、あろうことかベッドに横たわる兄の髪を優しく梳いた。
兄さんに触るな!と叫びだしそうになったアルフォンスを静止したのは、理性ではなくエドワードの表情だった。
虫酸が走る程嫌いなはずの男に触られて、エドワードは穏やかで安心しきった表情を見せる。
瞳はとろんと潤んで(これは弟の贔屓目かも知れない)、弛緩しきった表情…兄がそんな顔をしているのは始めてきたが、アルフォンスは兄以外の人間のこの表情を、今まで生きてきた中で何度も見た事がある。それは。
「嘘だ…」
アルフォンスは病室にはいることなく踵を返した。頭の中がぐしゃぐしゃで泣きそうだった。冷静に兄と会話できる自信は毛頭なかった。理解したくないのに、このときばかりは察しの良い自分にうんざりした。病院の廊下を駆け抜けていくとき、たくさんの好奇の目に晒されたけれど、そんなもの、気にもならなかった。
それから数日間、アルフォンスは見舞いはおろか、病院に電話もしなかった。