仕事で海外に行って、一年ぶりに期間した日本は彼の知っている日本とは少し違っていた。
ロンドンでの芸能活動は彼にとってとても楽しくて、きっと時間の進み具合が 違うんだ、とアルフォンス・エルリックは海外で仕事をするたびに感じる。日本人みたいに、こんな秒単位であくせくするなんて、きっとこの国の人たちにはできないんだろうな。金髪と、鈍い黄金色をした瞳を持ちながら、彼はもうすっかり日本人だった。英国人を見ると、外国人だと感じてしまう自分がとても面白い。
アルフォンスは、飛行機から降りてすぐに携帯の電源をいれた。メールが二通入っていて、一通は迎えにいけなくてごめん、という兄からの謝罪のメールだった。
それはもう一ヶ月も前からわかっていたことだから、アルフォンスはとくに怒りもしない。
そしてあとも う一通はとても懐かしい名前。
「…ウィンリィ?」

空港に近いホテルのクロークに大きなスーツケースを預けて、アルフォンスは部屋の鍵をロビーで受け取った。
エレベーターで上層へ上ると明らかに雰囲気が違う、毛足 の長い絨毯に先の尖った革靴が深く沈んでアルフォンスは歩きにくいなと眉をしかめて先を急いだ。
誰ともすれ違わない、誰もいないのかなと思って重い扉を開けると、そうでもなかった。かなりの少人数ではあったが。
アルフォンスはジャケットを預け て、カウンターでよろしいですかという質問に頷いた。
サングラスをかけつづけ るには店内の照明が暗すぎた。アルフォンスは日本について初めて、サングラスを外した。
カウンターで酒を注文して、しばらく待っているとウィンリィから電話。
アルフォンスは三回目のコールで出た。
「何?」
「ねぇ、ホテルの何階だっけ?」
「63階だよ」
「入りづらいなぁ…エフゼクティブフロア?とか言うんでしょう?」
「じゃあ部屋で飲む?僕今晩ここ泊まるよ」
「何それ誘ってんの?」
「うん」
「お断りだわ」
「じゃあ早く来なよ」
「はーい」
短い電話のあと、すぐに酒が来て、でも先に飲むのもどうかと思ってアルフォンスはグラスを手の中で弄んだ。
もう一度ケータイがなって、でもそれは兄からのメールだった。
兄、エドワードは彼の恋人と同棲している。結婚はしていないし、この先もしないだろう。
アルフォンスは、手早く返信を打った。今日は空港の側のホテルに泊まるよ。明日、お土産持って遊びに行くね。晩飯食べてっていいんでしょ?
メールの 内容を確認して、アルフォンスは冒頭に、ただいま、と付け足すことにした。

「ごめんね」
声をかけられるまで気づかなかった、アルフォンスはその声で顔を上げた。同時に送信ボタンを押す。
「何飲む?」
「ビール」
「好きだね」
ウィンリィが少し背伸びするように、高い椅子に登った。
彼女はスリットの入った黒 いタイトスカートをはいていた。アルフォンスは白い足だなと思って酒を煽った。自信があるんだろうなとも思った。
「どっか行ってたの?海外?」
「ロンドン。一年ぶりの日本だよ」
「え?そうなの!?いつ帰ったの?」
「まさに今日」
言って、アルフォンスはウィンリィを見た。まっすぐに見つめると、彼女はちらっとこちらに視線を向けて、でもそれきりだった。
アルフォンスは、ウィンリィの横顔か ら目を離さなかった。
ウィンリィは、ふーんと声を出してうめいて、それは決して興味のなさそうな声ではなかった。
暗い照明の中、ウィンリィの肌はどこかきらきらしていて、そういうファンデーションかなにかなのだろう、アルフォンスは直視できることに安心した。世の中にはその顔を直視するのが申し訳なく思ってしまう女性が、 少なからず存在する。つりあがった細い眉、結い上げられた髪はほどよく崩れて、細い指がその金色の髪をゆっくりとかきあげる。
「ちょっと、いい?」
沈黙を破った彼女の言葉の意味が、最初わからずにアルフォンスは一瞬沈黙、すぐに、ああ、うんどうぞ、と声を出した。
「アルフォンス嫌いだったわよね」
言いつつもウィンリィは鞄から小さい箱を取り出した。そこからタバコを一本取る と、桃色の細長いライターで火をつける。一息吸うのを見てから、アルフォンスは、
「嫌い」
「あはは、ごめんね」
悪びれなく笑って、彼女はもう一度、深くニコチンを吸った。タバコをくわえる唇 は、強烈な赤。化粧品のCMみたい、アルフォンスは思った。
時々灰皿に灰を落とす仕草も、ビールを飲むたびに細く震える首筋も、全部計算された、ウィンリィとは別の 生き物みたいだ。別の生き物がその唇を鮮明に異性に印象付けるためにプログラミングされていて、自分の背後にはカメラマンや音響や照明、衣装、メイク、監督、ADなんかがじっと息を潜めて観察している。
「エドは?元気にしてんの?」
懐かしい匂いがして、アルフォンスは口元が自然と緩んだ。背後にいた撮影集団はそ の瞬間霧散した。それだけで兄さんてすごいなと思えた。
「いや僕も半年以上会ってないし。でもそれなりなんじゃない?」
「ふぅん」
それなり。自分の兄は男と同棲していて、それなりにやっている。それまでは兄と ずっと二人暮らしだった。たまらなく寂しかった一人暮らしは、いまでもやっぱり寂しい。
ウィンリィは一本目を吸い終えると、半分ほったらかしていたビールに手をつけた。
昔の話をはじめると、二人とも饒舌になった。アルフォンスはがらにもないと言った。ウィンリィは、そんなことないわよと笑った。思い出は、いつも優しい。思い出は、真実ではないから。
アルフォンスはずっとウィンリィの顔を見ていた。仕事柄、 綺麗な女をたくさん見るアルフォンスは、ウィンリィを美人だとは思わなかったけれど、とても可愛いとは思った。
とても可愛い、近所に住むすぐ側にいる年上の女性だった。今は少し、遠くなってしまったけれど、それでも彼女はとても自分に近い。
ここに来て、そう思ったアルフォンスは自分の額に手をあてた。
酔ってんのかな。それとも、このシチュエーションかな。がらにもない、アルフォンスは今度は口には出さずに心で呟いた。
「僕ね、来月三十歳になるんだ」
「あ、そういえば来月誕生日ね。オメデト」
新しく注文したビールを、ウィンリィが軽くかかげる。
「大人の男ね」
「それ、なんかヤだな」
「どうして?」
「響きが」
「わがままなガキねー」
「知ってるよ」
ウィンリィが笑うと、アルフォンスは嬉しいと感じた。ウィンリィの笑顔には裏表がない。
タバコを吸ってもビールを飲んでも、深いスリットの入ったタイトスカートか ら柔らかそうな脚を覗かせていても、彼女は彼女だ。とても可愛い、近所に住む年上の女性だ。永遠にそうなんだと思った。そして、彼は彼女を絶対に邪険にしてはいけないと思った。
「ちょっと、お手洗い」
ウィンリィは小さく言うと、小さい鞄だけを持って席をたった。ウイスキーの入った グラスごしに、さっきまで吸っていたウィンリィのタバコが見える。桃色のライター は、灰皿の隣に。アルフォンスは一口、酒を煽って、それから一番新しい吸殻に手を伸ばした。半分以上残ったそれ、口紅のあとの残ったそれをアルフォンスは咥えた。 ライターで火をつける。口に広がった彼女の口紅は、苦味を帯びて灰に侵入してき た。
アルフォンスは、額に手を当てた。
(なんだかなぁ…)
そこはほんのりと優しい熱を持って、静かに警鐘を鳴らしていた。