肩にかけていたスポーツバッグをエドワードはクリーム色の床に下ろした。空港の待合場所には、色々な人間がいた。小さな子どもをつれた家族連れ、膝の上にノート型パソコンをひらいているスーツの男、売店で土産物の菓子を選ぶ若い女性たち。けれど、エドワードのほかに、一人で椅子に座っている中学生はいなかった。
空港内は喧騒で溢れていた。人々の声の音量を増長させているのは、搭乗を急かすいくつものアナウンスだ。エドワードは時計を見た。8時20分。待ち合わせは8時15分だった。エドワードは瞳をこすった。そういえば朝食をとっていない。エドワードは朝飛び起きて、顔をあらって髪を梳き、昨夜のうちに用意しておいた鞄をもって家を飛び出した。今日は日曜日で、弟はまだ起きていなかった。父親は、ここしばらく家に帰宅していない。エドワードは、しかし空腹を感じなかった。空港の待ち合い場所には、背もたれのない椅子が向かいあってならんでいて、そのほとんどが埋まっていた。空席を待っている人もいて、通路の向こうにはお土産ものや弁当を扱った店が並んでいる。コンビニのような店もあるし、喫茶店もあった。エドワードはもう一度時計をみた。8時21分。掌にかいた汗を、彼はズボンでぬぐった。
彼は、不安だった。空港には来たものの、彼自身は航空券を持っていない。搭乗口も知らないから、彼は電車からの連絡口に一番近い待ち合いに座っている。行き先は長野。それ以外は何も知らないのだ。けれど、不安要素はそこではない。
エドワードの航空チケットをもっているのは、彼の恋人だった。彼女ではない。言うなれば彼氏、それもかなり年上の。出会いはごく最近で、どちらともなく好意を抱き、進展はエドワードの予想の範疇を超えて早かった。ロイマスタングという名の彼の恋人は社会的地位が高いらしく、付き合い始めてから今までエドワードは夢じゃないかと疑うほど、彼との付き合いは別世界のもののようで、エドワードは今まさに夢からさめてしまいそうで。
不安だった。
付き合いはじめて間もない自分に、ロイが突然、長い休みが取れたんだよといった。やわらかいベッドの上、まどろみの中にエドワードはいた。
「休み?」
「うん。エドワードは明後日から冬休みだろう?一緒に旅行とか、行かない?」
「旅行…」
口の奥で呟いて、また夢物語な単語が出てきたなと感じた。旅行。彼は、家族旅行というものをしたことがないし、ましてや友だちどうしで旅行なんて、計画すらしたことはない。学校で行った修学旅行を思い出して、けれど一緒に行くのは隣にいる恋人なのだと思ってエドワードは赤面した。恋人と二人きりで、旅行に行くなんて。
ロイはどうやら別荘を持っていて、冬になると毎年泊まりに行くのだそうだ。
「長野のね、山の中。軽井沢から少し遠くて何もないところなんだけどね。すごくいいところなんだよ。」
一週間も何してるの?山の中で。エドワードがそう聞くとロイは、何もしないよ、と笑った。
「何もしないよ、ただ生活するだけ。食事を作って、掃除して洗濯して、買い物に行って、本を読んで。」
すごく楽しいよ、とロイは付け加えて、エドワードの額にキスをした。君と一緒だと、きっともっと楽しいよ。その言葉にエドワードは喜んだが、今思えば、彼は毎年誰か女性を連れ込んでいるんじゃないかとも思えた。毎年、一人で行ってるのかな。空港にいるエドワードにはわからない。
一週間の旅行をどう誤魔化そうか、エドワードは必死に考えた。弟は心配性で、エドワードは恋人のことすら話せないでいたから、どう言い訳すればいいのかロイに相談しようとして、やっぱりやめた。ロイに相談しても、彼ならきっと正直に言ったほうがいいというにきまっている。年の差ひとつの弟に、お前の兄の恋人は社会人でしかも男なんだよと、そんな告白をする勇気はなかった。ましてや、その恋人と一週間も旅行に行くなんて、言えない。エドワードは弟に友だちとスキーに行くんだと、普段友だちなんかと滅多に遊びに行かないくせに言い張った。弟はいぶかしんだが、エドワードは行くったら行くんだといい逃げして今に至る。
エドワードは時計を見た。8時23分。飛行機の時間は30分のはずだった。エドワードは、携帯を見た。メールも着信もなかった。
エドワードの初めての恋人がロイだった。ロイは、エドワードの知らない世界に住んでいた。学校の終わりに、エドワードは学校から電車に乗る。学校の前ではまずいので、ロイは一駅向こうの駅前で待っている。電車には乗らない。いつも車だった。二人のデートはだいたいが夕食で、店を選ぶのも、金を払うのもロイだった。友だちとは絶対に行かない、行けないような店にエドワードは連れて行かれていつも緊張していた。出されるのは高級料理ばかりで、最初の一週間でエドワードは3キロ太った。それから焦って今は毎朝ジョギングしている。
ホテルに行ったのは、付き合いはじめて二週間と三日目だった。もちろん、そういうホテルに行くのは初めてだった。
「犯罪だね。中学生を連れ込むなんて。」
ロイはそう言って笑った。エドワードは、ロリコンと言って笑ったが、本当はものすごく緊張していた。部屋の真ん中にある大きなベッド。それ以外はないような、それ以外のことはできないような部屋の造りにエドワードは赤面して、眩暈を覚えた。
その後の年上の恋人との性交は、それこそ夢のようで、エドワードは溺れていきそうな自分を律するのに必死だった。ロイに出会って、自慰の回数が増えてしまった。それがロイのせいなのか、それともそもそも自分が性欲の強い人間だったのかはわからないが。
そういえば、付き合いはじめてまだ一ヶ月もたっていないことにエドワードは今気づいた。
空港内のアナウンスが、響く。8時30分発、ANA007便長野行きのチケットをお持ちの方は、搭乗口3よりお急ぎご登場下さい。若くて綺麗な女性の声だった。この女性に恋人はあるだろうか、エドワードは思った。恋人と旅行をしたことはあるんだろうか。恋人を、空港で待ったことはあるんだろうか。
時計を見る。8時24分。エドワードは嘆息して携帯をだした。アドレス帳でロイを検索する。電話をかけようとして、迷っていると不意に頬に温かいものがあたって、それが温かいんだと認識する以前にエドワードは飛び上がった。
飛び上がって振り返ると、そこには笑顔の恋人がいた。黒いコートを着た恋人は手に暖かに缶コーヒーを二つ持って、微笑みながら。
「長野は、寒いよ。」