頭が痛い、右の頭の後ろの方、薄い皮膚と堅い頭蓋骨に守られた血管が脈打って、じんじん染み渡る、痛さに、少しずつ気力とかやる気とか覇気とかが奪われる。そういうときに限って――きっと、この平和ボケした頭にはこれくらいの刺激がないと駄目なのだ――新しい切り口から構築された式やらいつか読んだ哲学的な詩人の言葉が思い浮かんで、けれどそれらは書き留める間もなく、浮かんでは痛みに負けてまた意識の深層に沈んでいく。
その喪失感に耐えられなくて、あ、とエドワードは息を吐いて、爪で顎の辺りを抉った。軽く撫でるつもりが、力の調節がうまくできなくて、機械鎧の指の先端に表皮の屑がこびりつく。頭痛を紛らわすための行為の結果の白くかさかさした粉を見て、嫌悪感と共に一層頭の痛みが増した。痛みは頭蓋骨と脳の間辺りの、非常にむず痒いところを徐々に下に移動している。耳の後ろ辺りに、身体の中で一番太い血管が移動してきて瘤を作って(というのはエドワードの妄想だが)熱を持っている。
「兄さん」
心配そうな弟の声が妙に耳障りだ。喋らないでくれ、と口が勝手に言ってしまいそうで、エドワードは唇を前歯で噛んで制した。
自分の本体は今、耳の後ろを通っている血管に全て移動してしまっていて、頭に全部重心がいっていてそれ以外の所は全然コントロールできない、気がした。口が勝手に余計なことを(この場合アルフォンスが傷ついてしまうようなことを)言わないように、口を閉じたまま、ううん、と返事に聞こえるように喉を鳴らした。
「仕方ないよ兄さん、図書館の本なんて僕らだけのものじゃないんだし。また今度借りに来ようよ」
うん、と言おうとして、今度は痰が絡まって喉が震えずに不発に終わった。無視をされたとアルフォンスが機嫌を損ねたらどうしよう、と一瞬不安になってエドワードは弟の表情を伺ったが、鉄の鎧は前を向いたままでいつもと同じ、黙りだった。怒った様子もなくて、エドワードは心配して損したとばかり、無駄な己の(この上なく気まぐれで自分勝手な)気遣いでどっと疲労感を背負って、首の後ろ辺りをさすった。どくどく言う血管をなだめる様に手を当てる。傷口を手当てすると言うのは、本当に患部に手を当てて痛みを和らげる事に由来があるんだよ、と誰かから聞いた。多分あの司令部に鎮座している気障で憎たらしい恋人だ。夕方の風は夏からすっかり秋に、数日前の涼風から掌を返したかのように性格を変えて、服の上から肌を刺している。
「なぁアル、大佐のところ」
「あ、司令部寄らなきゃいけなかったっけ」
喋ったら痛みの位置が変わった。今度は頭頂部に近い辺りに熱がぽんと移動して根を張った。
「今日はちゃんと報告書持ってきた?」
「昨日宿帰ってすぐ入れた」
報告書を提出しに行って、当の報告書を忘れたと言う間抜けな失敗、エドワードにしては珍しいその単純なミスに、ロイは笑って明日で良いよと言った。そういえばあの時はまだこんな頭痛に悩まされていなかった気がする、とまだ24時間とちょっとしか経っていないのに昨日の遣り取りがやけに遠く感じられた。
昨日できたことが今日できない。愛想笑いの一つも浮かべられない、自分にいつもよくしてくれるファルマン准尉やフュリー軍曹に見つからないように廊下を抜けて、自分達兄弟を気に掛けていつも構ってくれるブレダ少尉とハボック少尉のちょっかいを、お世辞にも可愛いと言えない態度であしらって、声を掛けてきたホークアイ中尉にさえ、あら、今日もきたの、と言われて、もう喉を鳴らす努力もしなかった。
「大佐なら中よ、まだ書類にまみれてると思うから」
「ありがとう中尉」
お礼を言ったのはアルフォンスだった。自分と弟は2人でセットみたいに思われていて、なんとなくこんな不作法をしても許されている気がする。
「おやエドワード。勤勉だね、二日続けてここに顔を出すなんて」
そして、そんな自分を究極に甘やかしているのは彼だ。今だって挨拶もしていないのに、彼は自分が言うべき言葉を代わりに言ってくれてしかも優しく微笑んでいたりする、そしてそんな彼に露骨に機嫌を悪いのを隠そうともしない自分を責めたりもしない。
「報告書、今日こそちゃんと持ってきたぜ」
「そりゃあ君、昨日忘れてるんだから」
受け取ってロイは穏やかに言う。お茶でもどう?という誘いを、いつものように一蹴しようとしたところに思わぬ妨害が入った。
「兄さん、行ってきたら?」
「え」
「ほら、アルフォンスもこういってることだし」
「お願いします大佐、なんか今日兄さんちょっとテンション低いみたいなんで、大佐が適当に怒らせて血圧上げさせて下さい」
テンションが低いんじゃなくて頭が痛いんだ、と反論したかったが、そうするのも億劫だと躊躇っている内にとんとん拍子でエドワードを一人蚊帳の外に話が進む。門限がどうと、アルフォンスが言ってそれにロイが同意して、ああだこうだと話がまとまった後エドワードは強制的に弟と引き離された。
エドワードは、しんどいと主張するのがしんどくてそれに黙って従った。頭が痛いと主張するほどでもなく、生憎頭痛も治まってきた。
お茶、と言うには豪勢で、つまりはディナーだった。テーブルの上に並べられた料理を挟んで向かい合って、無言だった。エドワードはさりなん、ロイもさっきアルフォンスと居た方がよっぽど楽しかったのではないかと言った様子で黙々と箸をすすめる。
エドワードの頭痛はちょっと前から消えて気力も少し回復して、アルフォンスの言うように後はロイが少しエドワードのスイッチを入れてくれれば、いつものような軽口の応酬が出来るくらいには回復していたけれど、急に態度を変えるのも何となく格好悪くて黙っていた。食べる以外に口を閉ざしてしまったロイに、伺うように視線をやるとうまい具合に視線がかち合った。顔を逸らすタイミングを失って、しばし間抜けなにらめっこをした後に、ロイはやっと笑っていった。
「やっと可愛い顔になった」
集中力がぷちんと切れた。
頭が痛いときに浮かんでいた構築式とかやたら哲学的なこととかが、波が引くように遠ざかっていった。それはそれは見事に、さっきまで何をあんなにイライラして悩んでいたのだろうと言うくらい頭の痛みも晴れて、身体が自由に動いた。頭に集中していた神経が、ぱっと霧散した。耳の後ろの空想の瘤みたいな事もいつのまにか忘れていた。
「さっきまで酷い顔をしていたんだよ、こんな、いつもより三倍くらいこわい顔で」
こんな、と言う所でロイは瞼を引っ張り目をつり上げた。
「そんな酷い顔してねぇよ」
さっきまであんなに億劫だった声帯を震わせる行為が、やたらとスムーズに出来て、意識をしなくてもぽんといつもの軽口が出た。
自分達が元に戻るのに、研究のために、ロイという存在ほど疎ましいものはない。甘い甘い誘惑、いつも持っていないといけない焦燥感が、彼と居るときには忘れられて、自分は優しい現実に浸る事が出来る。
ロイが居なくなれば、自分は後ろ盾とか愛情とかそういうものはなくしてしまうかも知れないけれど逆にそれは足枷を外すようなもので、本当はもっともっと自分を追いつめて研究しなければならないはずで、そして彼が居なければそれが出来るはずなのに、だからロイが居なくなればいいと思う。そしたら自分はもっと非人間らしい錬金術師になって、身体が壊れるまで無茶をして自分達を元に戻す方法を探せるのに。なのに自分は研究が行き詰まってそこで忘れてはいけない焦りと疲れを、その暖かいところで勝手に癒そうとする。
(逃げてるんだ)
ロイに言ったらそれこそ頬を引っぱたかれそうなことを、エドワードは口には出さず呟いた。