クリスマスだということを忘れるくらい多忙な年末だった。オスカー・フォン・ロイエンタールが十数時間座り続けていた椅子から立ち上がって伸びをする。やっと帰られる、と安堵の吐息を漏らしたとき、ドアのノックの音が聞こえてロイエンタールは眉根を寄せた。なんだ、と声をかけながら腕時計で時間を確認すると、21時を少し回ったあたり。「失礼いたします、皇帝陛下がおいでになられ…」
「ロイエンタール!」
従者の恭しい口上を、それこそ押しのけて入ってくる金髪の青年に、ロイエンタールは柔らかい動作で敬礼した。新銀河帝国初代皇帝、ラインハルト・フォン・ローエングラムである。ロイエンタールは、困った様子でいる従者に目線で合図を送ると、すぐに視線の先を戻した。従者が慌てて頭をさげて、執務室を後にする。
「いかがなさいました?我が皇帝。」
「今日はクリスマスイブだぞ、ロイエンタール。」
「……ああ、そのようですね。それが何か?」
黒髪の臣下に無表情で問われて、さっきまで上機嫌だった皇帝の顔にみるみる影が差していく。あっというまに、その白い肌は真っ黒に、はならないが、そう見えるほど不愉快そうな色に染まった。氷蒼色の瞳はまるでドライアイスみたいだなと、ロイエンタールは思った。
「………別に、何もない。」
くるりときびすを返すだけで、ラインハルトという青年は絵になる。金色の髪は、きらきらと光をうけてふわりと広がり、何事もなかったかのようにコートの背中に落ちる。黒いコートの上に、明るい金色が映えていた。出会った頃より随分伸びたものだな、とロイエンタールは胸中で呟きながら、
「我が皇帝。」
歩き出そうとしたラインハルトを、いつもの呼び名で呼び止めた。皇帝の足が止まる。
「なんだ?」
「少し、歩きますか。ギャラルホルンあたりは、深夜まで賑わっておりますれば。」
ラインハルトは、振り返りはしなかったが聞き耳を立てていた。背中を見ただけでも、わかる。ロイエンタールは、さらに続けた。
「イブのギャラルホルン通りを、ご覧になったことはございますか?」
「ない。」
「ならば是非とも。」
「………仕方がないな。」
ラインハルトが、向き直る。ロイエンタールは、微笑みながら、ただし条件があります、と付け足した。
「条件?」
「その格好では目立ちすぎるので、着替えていただきます。」
金髪の青年は、細い眉を寄せて、む、と呻いた。
「軍服は正装だぞ。」
「そういう問題ではありませんよ。貴方は皇帝陛下であらせられます。皇帝陛下がギャラルホルン通りをクリスマスイブに歩くと、街は混乱してしまいます。危険です。」
「…なら、どうすれば良いのだ?」
「簡単です。変装すればよいのですよ。」
「………へんそう?」
「わたくしにお任せ下さい、我が皇帝。」
「……」
ロイエンタールの胡散臭い笑顔に、ラインハルトはしばらく沈黙していたが、それも長くはなかった。
「わかった、卿に任せよう。」
12月24日のギャラルホルン通りは、例年以上の賑わいを見せていた。軒を連ねている店の装飾は、昨年よりも質素にはなったが、その分みんなデザインにこったものばかりとなった。派手な色目の電飾は一切なく、街は白と青の二色に統一されていた。等間隔にならべられた背の高い街路樹を見上げながら歩いていたエヴァンゼリンは、前から来た男性とぶつかる寸前で、隣を歩いていたミッターマイヤーに引っ張られた。よろけながら、その腕につかまると、彼女の夫は優しく彼女の髪を撫でた。
「気をつけろよ、エヴァ。上ばっかり見てないで。」
「ありがとう、ウォルフ。でも見て?こんなに綺麗よ。」
エヴァンゼリンは遠くまで続く街路樹を指差した。白と青がきらきらと遠くの道まで照らし出している。そして、道の両脇からは、さきほどから鼻腔をくすぐるいい香り。
「イルミネーションもいいけど、ちょっと何か食べないかい?何が食べたい?」
「そうね…」
ミッターマイヤー夫妻は身を寄せながら、並んでいる店に目を向けた。フランクフルトやピザ、フライドポテト、ドーナツ、フレンチトーストの店ある。どの店も、歩きながら手軽に食べられるような形やサイズになっていて値段も値ごろだ。ミッタマイヤーが、蜂蜜の甘い匂いに誘われて視線をある店に向けた。と、
「ねぇ、あなた。」
エヴァがミッターマイヤーを呼びかける。
「あれって……ロイエンタールさんじゃないかしら?」
それは、ちょうどミッターマイヤーが匂いにつられてみた店の行列の中だった。
ミッターマイヤーは、人ごみの中で思わず足を止めてしまった。後ろから押されてはっと気づいて、歩き出す。
「ほんとだ…でも……えぇ!?」
混乱するミッタマイヤーをよそに、エヴァンゼリンはなかば彼の腕をひっぱる形で、そちらの方へ進んでいく。距離がみるみる縮まって、ついに真横へ来ると、エヴァンゼリンは礼儀ただしくぺこりと頭を下げた。ロイエンタールと、その隣にいる金髪の女性に向かって。
「お久しぶりです、ロイエンタールさん。初めまして、フラウ…」
ミッターマイヤーは、もやは弁解する気力もなくただうな垂れていた。
筋を一本入った公園のブランコに、金髪をなびかせて美しい女性が座っている。彼女は先ほど購入したバニラビーンズ入りのハチミツソフトクリームを舐めていた。
その前に、二人の男性と一人の女性が立っている。女性は深々と頭を下げると、言った。
「も、申し訳ありませでした、陛下…!」
「…?いや、かまわぬ。」
陛下、と呼ばれたのは、そのブランコに乗っている女性だった。いや、正確には女性ではない。女性に変装をさせられた、ラインハルトだった。首元に灰色のファーのついた黒のロングコートコート、光沢のあるベロアのローヒールブーツ、毛足の長い白のロシア帽をかぶって、エヴァンゼリンの言葉に小首をかしげている。
「というか何を謝るのだ?予は、女性に変装しているのだから、フラウでよいではないか。なぁ、ロイエンタール?」
ラインハルトは楽しそうに、地面を蹴ってブランコを揺らした。そうですね、とロイエンタールが静かに同意する。
「お前か!?陛下にこんな格好をさせたのは!?」
ミッターマイヤーは尋常でないほどの汗をかいている。ロイエンタールは対照的で、少し肌寒そうに肩をすくめると、
「そうだ。陛下にもギャラルホルンを楽しんでいただこうと思ってな。」
「だからってこんな…失礼じゃないか!」
「失礼?そんなことはない…あんなに似合っておいでだ。」
ミッタマイヤーとロイエンタールは少し離れたところにいたから、二人の会話はラインハルトとエヴァンゼリンには聞こえなかった。ラインハルトはエヴァンゼリンに顔をあげるように促す。
エヴァンゼリンは顔をあげた。風に舞う金糸と、遠くににじむイルミネーション。真っ白い雪のような肌に、宝石のように澄んだ色の瞳、そこに影を落とす長い睫。化粧もしているのだろう、頬はほんのりと赤く、口紅には艶があった。エヴァンゼリンは思わずため息をついた。彼女は、とても素直な女性だったから、
「本当に、陛下はお美しくていらっしゃいますね。」
と感想を述べた。ラインハルトは、目を丸くすると、
「フラウ・ミッターマイヤー。私は女性に面と向かってそういわれたのは初めてかもしれぬ。」
「あら、そうなのですか?」
「うん。」
彼の返答に、ミッターマイヤー夫人は吹きだしそうになるのを必死にこらえた。ラインハルトの子どものような返答と、ソフトクリームを掬い舐める赤い舌が、皇帝という地位とはどうしてもアンバランスな気がしたのだ。本当に、こんな人が、先の戦で天才だと呼ばれた人なのだろうか。戦争好きな皇帝だと、陰口を叩かれるような軍人には、とてもじゃないけど見えないわ。
「エヴァ!」
名前を呼ばれて振り返る。ミッターマイヤーの、妻を見る目はとても優しくて穏やかで、ラインハルトはソフトクリームを取り落としそうになった。彼自身でもわからない理由で、心臓がやけに早く脈打つ。自然な仕草でエヴァンゼリンに微笑みかけて、彼女のそれに答えるように視線を合わせて、
「そろそろ、お暇しようか。」
「そうね。」
それだけの短い会話の中には、とてつもなく深いものがあるような気がして、その深淵に怯えてラインハルトは二人の向こうにいるロイエンタールを見た。ロイエンタールも、こちらを見ていた。ラインハルトは、その左右色の違う瞳がゆれているのを見た。彼も、きっと何かに怯えているに違いない、ラインハルトは感じた。ロイエンタールも、この二人に怯えだしたのだ。でも、ラインハルトにはその理由がわからなかった。
「では、皇帝陛下。我々は失礼いたします。」
真面目な声で、ミッターマイヤーは言った。皇帝陛下、の部分だけトーンを落として、さらに敬礼も省略したのは彼なりの気遣いだろう。ラインハルトは、クセで敬礼しそうになった右手を、一瞬迷ったが、振ってみた。こんな挨拶は、もう何年ぶりだろう。エヴァンゼリンが、子どものような顔をして笑いながら、手を振り替えしてくる。こら、と怒るミッタマイヤーを、ラインハルトはたしなめた。ミッターマイヤーが苦笑して頭を下げる。
二人は、身を寄せ合いながらそのまま公園をあとにする。手と手を繋いでいるのが、ラインハルトの網膜にやけに鮮明に焼きついた。
ミッターマイヤー夫妻が去ってすぐに、ラインハルトとロイエンタールも公園を出た。おなかがすいた、と呟いたのはラインハルトだが、それ以降何もしゃべらなかった。そしてそれは、ロイエンタールも同じこと。
甘い匂いや、食欲をそそる匂いが街中にあふれているのに、二人とも何も言わずにもくもくと歩いていた。人ごみの道、多く見られるのはカップルと家族連れだった。みんな、体と体を寄せ合って行動するために、それらは個体ではなくて団体として捉えることが出来た。けれど、二人の間には奇妙な距離があった。二人は何度か、他の団体とぶつかった。
黙々と歩いているうち、道はだんだん賑わいをなくしていった。イルミネーションも、申し訳程度しかないようなところまで来て、ラインハルトは白い息を大きく吐き出した。
「ものすごく、夫婦だったな。」
「…そうですね。」
ミッターマイヤーと、夫人のことだと、ロイエンタールはすぐにわかって同意した。同意する声は、いくぶんか力なかったがそれは空腹のせいばかりではないだろう。
「私は、正直苦手なんですよ。」
「あの夫婦が?どうして?」
「さぁ…どうしてかはわからないのですが…」
ラインハルトは、ポケットにつっこんでいた両手を唇の前に持ってくると、はぁっと息を吐きかけた。一瞬だけの湿気た暖かさが心地いい。ロイエンタールはさらに続けた。
「なんだか、恐ろしいのです。幸せな家庭を知らないから、未知のものに見えてしまうのかもしれませんね。」
ラインハルトは、自分の掌を見つめていた。いつの間にか立ち止まっていて、ロイエンタールもつられて足を止める。
「…どうかしましたか?」
ロイエンタールの声を聞いて、ラインハルトは頷いた。掌を見つめたまま、
「予もちょっと、苦手だ。」
「そうですか。」
同じですね、と言うロイエンタールにラインハルトは、また首を縦に振った。
「なぁ、ロイエンタール。」
「なんですか?」
ラインハルトは、返事の変わりに右手を突きつけた。白い、掌とラインハルトの顔を交互に見やって、ロイエンタールはしばらく考えたが正解がわからずに、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「左手を出せ。」
ラインハルトの意図がまだわからないロイエンタールは、素直に左手を出してみせる。ラインハルトはさらに、
「予の手を握れ。」
「は?」
「握れ。」
「………。」
そこでようやく意図を掴んだ彼は、突きつけられていた右手を、自分の左手で優しく包んだ。高貴な白い手は思った以上に冷たくて、彼は焦った。指をからませて手をつなぐと、ラインハルトは口元を緩めた。
「お前の手、あたたかいな。」
「心の冷たい証拠ですよ。」
「馬鹿。」
そう言って笑うラインハルトの声は、驚くほど無邪気で明るかった。ロイエンタールは、手を握る力を強めた。ラインハルトも、握り返してくる。
「不思議な感じだな。」
「そうですね。」
「悪くない。」
ラインハルトは小さく二度、そう呟いた。悪く、ない。
「なぁ、ロイエンタール。」
「なんですか?」
「予は何か食べたい。」
「……戻りましょうか。」
「うん。」
二人はきびすを返して、もと来た道を戻り始めた。お互いの掌を握りしめたまま。